煙草はしばしば、緩やかな自殺と表現される。
自分で有害物質を吸い込んで、重篤な病気の発生リスクを高める。がんや脳卒中などその例には枚挙に暇がない。一本吸ってすぐに死ぬことはないけれど、吸っていない人に比べれば、その差は一目瞭然である。
だからハタチになったら絶対に煙草を吸うのだ、と、長谷川は叫んだ。
午後八時前のバス停。辺りはもう暗く、五月だというのに風が冷たい。色褪せた椅子に座っているのは長谷川と山本の二人だけである。たまに車が通る程度で人通りもほとんどないので、男二人の低い声は暗闇に溶け込んで消える。次のバスは三十分後である。
「無理じゃないか。煙草は吸い続けないと寿命の短縮に繋がらない。お前、毎回煙草に五百円払うお金あるのか」
山本が向かいの民家を眺めたまま言う。「お前金ないだろ」
遠くで救急車の音が聞こえる。長谷川は「まあ、そうだけど」と呟いて何度も見た時刻表をまた眺め始めた。ぽつりぽつりと一定の間隔をあけて印字された数字がこの地域の過疎を物語っている。ここは都市圏とは真逆の位置にある高校で、普通電車しか止まらない小さな駅が最寄りである。途中で快速に乗り換えても、繁華街までは二時間弱の辺鄙な場所に二人は住んでいた。もちろん、自転車で三十分の距離には広い駐車場を携えたイオンがある。
平和と引き換えに情動を捨てたような街だった。
長谷川は実家のスーパーを継ぐ予定なので、大学は行かずに父親のもとで働く。山本は大阪に出張に出ている母親と同居して、大阪の専門学校に進学予定だった。もうずっと前から決まっていることなので、二人とも、それに異を唱える気は微塵もない。ただ、この街に残り、そして今後も恐らく出ることのない長谷川だけは、向こう何十年も永遠回繰り返されるこの街での生活になんとも言えない虚しさを覚えていた。
「早死にしたいのか」
なぜか今日はくぐもった山本の声がよく響いた。
「今すぐ死にたいとは思わないよ」
長谷川は、ひと息入れて続けた。
「ただ、少しずつ寿命を短縮できるなら、いいなと思うんだ。死にたいけど今じゃなくていい、でも早めに死にたい。そういうときあるだろ」
長谷川の虚しさには彼の家族も、担任も、付き合って一年弱の彼女も気付いていた。皆知っていて知らないふりをしていた。どうにもできないし、本気でどうにかする気もないのである。狭い世界の中では、荒波を立てるほうが悪者になる。この街はそういう意識が非常に強い。そうやってこの街は成り立ってきたのだと教えられて育つのだ。
「僕は、五歳の頃にここに来た。覚えてるだろう」
「突然なんだよ。もちろん覚えてるよ、山本はあの時すごく背が小さかった」
「僕はこの街があんまり好きじゃない。存続とか現状維持とかばかり気にして、何か変えたいと口に出すことすら憚られるような空気感がある。そういうの、ほんと、気持ち悪い」
「言ってくれるね」
「皆で沈んでいるの、気付かないのか。仲間内でニヤニヤと街を抱いて、こうたいばんこに磨いて。うまく言えないけど、長谷川の言ってることは当然だよ。君はここで大人になるべきじゃない」
切れかけの蛍光灯が点滅する。粘り気のある風が吹いて、山本の長い前髪を少しだけ捲った。茶色い瞳に薄い一重瞼が覆いかぶさっている。山本は最近こういう話をよくするなと長谷川は不思議に思った。
遠くからエンジンの音が微かに響き始める。
長谷川が足元のリュックサックを背負いバス停の真ん中に立つと、意外にも今日は寒くないことに気がついた。風は冷たいが、空気自体はそれほど冷え込んでおらず、むしろ湿気で少しもたついた暑さすら感じる。ふと空を見上げると、まるでアクリルガッシュで平塗りしたみたいなぺったりとした黒が広がっていた。
大きな車体が窮屈そうに奥の角を曲がってくるのが見えた。
山本はまだ座っている。
「山本。来たぞ」
「緩やかな自殺はもうひとつ方法があるんだ」
バスが滑り込んでくる。オレンジ色のライトで山本の顔が暴かれるみたいに照らされた。一直線に通った鼻筋に薄い唇が印象的である。ああ、そういえばクラスの女子が、山本に今度告白するらしいな。長谷川は、それが今考えなくても良いことであると誰よりもわかっていた。
バスの乗客は少なかった。
二人は一番後ろの席まで行って、空いているのに窓際に詰めて座った。
遠くで高速道路のライトが連なって光っている。誰も停車ボタンを押さないので、バスは既にひとつ目の停留所を通過していた。今日の揺れはやけに酷い。
「今日のバスはよく揺れるな」
長谷川が少し大きい声で言った。山本が大きく二回頷いた。二人の目的地は終点である。橋を渡って坂を下りたところに、この町で唯一の国鉄駅があるのだ。もっとも、終電は午後の十時半である。今日が平日であることも手伝って、この時間に駅に向かう人間はほとんど居ないのが通例だった。たまに写真家や小説家が他所から来るのを見かけるので、どの乗客が写真家かと長谷川が呟くと、今日はみんな降りるよと山本は退屈そうに答えた。その言葉通り、前方に座っていたサラリーマン風の男が数人、足早に降車すると、やがて乗客はふたりだけになった。
高速道路も見えなくなって、たまにくすんだ黄色の街灯が目の端を過ぎ去っていく。またひとつ停留所を通過すると、だんだん揺れはおさまった。
「緩やかな自殺は、煙草の他にもうひとつ方法がある」
さっき言った言葉を丁寧になぞるように、山本は繰り返した。
「勿体をつけるなよ」
「タイムトラベルって知ってるか」
「なんだって」
「時間旅行だよ。タイムスリップとか、聞いたことないか」
「わかってる。それが何なんだ」
「だから、これで寿命を縮めることができるんだよ、本質的な意味で」
山本の表情が至って真剣であることを認めると、長谷川はすぐに手に持っていた携帯電話をズボンのポケットに仕舞った。誰もいないから、と呟いて大きなリュックサックを隣の席に置く。空いた膝の上に掌を乗せて顔だけ山本の方を向いた。山本は、長谷川のその態度に満足したかのように深く息を吐いて、からかってるんじゃないからな、と呟いた。話し始めた山本の言葉には無駄がなく、淡々としており、誰かや何かがそれを遮ることをひどく拒むような感があった。
「タイムトラベルには厳格なルールがある。
移動できるのは過去のみで、未来には行けない。現代に戻ってくるにはタイムトラベルした地点から通常の時間を過ごして、もとの時間地点に到達するしか方法はなく、早送りや現代への『逆タイムトラベル』はできない。そして、タイムトラベルによって重複した時間は、寿命から徴収されるシステムになっている。この三点が大原則だ」
山本は戸惑いが現れ始めた長谷川の顔にちらりと視線をやって、また足元に戻す動作を何回か繰り返した。変な間を挟んで、長谷川がおずおずと口を開く。
「待ってくれ。どういうことだ? タイムトラベルは、タイムマシンに乗って、好きな時間に行けるものなんじゃないのか」
「それは夢物語だ。現代のタイムトラベルはまだその域に達していない。何ならタイムマシンも存在しない。現段階でタイムトラベルは、道具や乗り物を使わずに人間の念力のようなもので行うことができる」
「うまく咀嚼できない。情報量が多すぎるんだ。そもそも、それと自殺がどう結び付くというんだ。煙草のように有害なのか?」
「そうとも言える。さっきお前に話しただろう。三番目に言ったルールを覚えているか。タイムトラベルによって重複した時間は寿命から徴収されるんだ。例えば一〇分前にタイムトラベルをすれば、寿命が一〇分縮む。人間の寿命はそれぞれ絶対量が決まっていて、八〇年なら八〇年分しか時間を使えないことになっている。タイムトラベルしたぶんだけ寿命から回収されるから、結局年齢的に見て早く死ぬことになる。一八歳の自分で過ごすか、七十五歳の自分で過ごすかの違いなんだよ」
「言われてみれば煙草と似ているかもしれない。一本吸うごとに五分寿命が縮まるとテレビで見たことがある。それをわかっていて吸うから緩やかな自殺になるんだ。すると要は、今俺が五分前にタイムトラベルをすれば、五分寿命が縮まることになって、一八歳の俺が五分増えるというわけだな」
「そういうことだ」
「寿命が縮むとわかっていて何度もタイムトラベルを繰り返せば、それは緩やかな自殺と言える」
「そうだ」
「だが、その分今より若い自分として過ごす時間が増えるわけだから……」
バスが止まった。停留所のベンチに人影が見える。後ろの扉が口を開けるみたいに開いたが、人影は動かない。田舎はたまにバス停のベンチで仮眠を取る高齢者が居るので、こういうことは珍しくなかった。少し経って扉は閉まり、バスはまた発車した。
再び流れ始めた街灯を五つほど見送る。田舎の夜は本当に暗いので、街灯にこびりついた虫の死骸や汚れは黒の斑点としてよく目立っていた。
痺れを切らしたように山本がまた話し始める。
「もっとも、生きている時間は変わらないから、これは自殺行為とは捉えられないという説もある。もう一秒たりともこの世で息をしたくない人にとっては、この方法は無意味だ」
どちらも前を向いていた。前方には次の行き先がオレンジの文字で表示されていて、もうすぐ終点であることがわかった。臙脂色の布が張られた椅子が規則正しく並んでいて、ふたりと同じようにバスの揺れに身を委ねている。メッシュポーチに入った筆談具が椅子のツマミの部分に引っ掛けられてぷらぷらしているのを見ていた。
やがて、まもなく終点です、とくぐもった声でアナウンスがなされた。
お降りのかたは、お忘れ物のないようご注意ください。バスが完全に停車するまでお立ちにならないよう、おねがいいたします……。
「長谷川、永遠に一八歳までの人生を繰り返すんだ……。最初は少しで良い。だんだん延ばして、もとの時間に達したらまた過去に戻って、一八歳のまま寿命を使い果たすんだ。そうすれば君は、この街で大人にならなくて済む。痛い思いはしないはずだ。その時がくれば、気がつかないうちに存在は消滅する」
長谷川は返事をしなかった。
ふたりは定期券をかざして降車して、もうすっかり暗くなった駅前を歩いた。コンビニの前で顔見知りの先輩が数人座り込んでいるのを見て、ちょっと遠回りをして駐輪場に向かった。空地にロープを張っただけの簡易的なそこには、ふたりの自転車以外に、持ち主のわからないママチャリがもう何年も前から置いてある。
「このチャリ、いつまでここに置いておくんだろうな」
「いつまでもだよ」
並んで自転車を押して大通りに出た。数少ない信号がちかちかと黄色に点滅している。向こう岸に渡ってしまえば、方向は別だ。長谷川はまっすぐ行ってつきあたりに家があり、山本は右に曲がってもう少し進まねばならない。どちらも何も言わずにのろのろと歩いたが、ものの数十秒で横断歩道が目の前に現れた。
立ち止まる。
「山本は」
チカチカと黄色いライトが長谷川の輪郭を際立たせている。
「山本はタイムトラベルをしたことがあるのか」
この信号は押しボタン式である。ボタンを押さないと信号は永遠に青にならない。そんなことはわかっているはずなのに、どちらもボタンには手を延ばさない。
「ある」
向かいの田んぼの穂先を見つめるように、目だけを下に向けて、山本は答えた。怒られて不貞腐れた少年のような表情をしていた。
「何回もある。今も、今までも」
向こう岸に誰か来て、ボタンが押されたらしい。間もなくして信号はくすんだ緑色に光った。二人は自転車にまたがると、短い挨拶を交わした。横断歩道を渡り、それぞれの行き先に広がる暗闇へと消えた。