凡礼大学探偵部:小説部とのゴタゴタの記録

長編/ミステリ/水守 泊

 

 凡礼(ぼんれい)大学、という大学がある。

偏差値が特別高いわけでもなく、これといった特色があるわけでもない、いたって普通の大学。

 そんな凡礼大学の、本館の隣に立っている特別棟。その滅多に人がこない三階廊下の突き当たりに、とある部室がある。件の部室の前には、『探偵部』と書かれたプレートと『アナタの悩み、解決します』という紙が貼り付けられていた。

 

 

 『探偵部』の部室は、意外と普通の空間だ。

 ポールハンガーにベレー帽がかけてあったり、机にパイプ型のタバコが置いてあるなんてこともない。

 あるのは面接で使われてそうな長机が一つと、大学の倉庫から隙を見て盗んできたパイプ椅子が数脚だけだ。

 そしてその長机の前に、足を組んで座りながら図鑑みたいな本を熟読している女子がいた。六月の日差しを背に受けながら静かに本を読むその様は、さながら絵画のように綺麗である。

「壇浦(だんうら)先輩。紅茶淹れましたよ」

 だが、そんな絵画空間に水を差す人間が一人。僕である。

 僕……渡辺純(わたなべじゅん)は、紅茶が入ったカップを読書中の女子の前に置いた。カップの中に満たされている紅茶は部屋の電球を反射して光っている。この紅茶は市販のモノとかではなく、専用のティーセットで茶葉から用意して淹れた、割と手間のかかっているモノだ。

 しかしそんな僕の力作茶を、壇浦と呼ばれた女子は一瞥もしようとしない。その瞳はカップには向いておらず、紙に印刷された活字を追うのに夢中なようだ。

 渋々僕は顔をもう少し彼女の耳に近づけてもう一度呼びかける。

「壇浦先輩? 紅茶、淹れましたけど?」

「うわっ、わっ、わっ、びっくりした。……なんだ渡辺くんか。 驚かさないでくれたまえよ」

 驚きながらそんなことを言う先輩。彼女が頬杖をついた拍子に、セミロングの髪がふわふわと揺れる。

 ……相変わらず変な話し方をする先輩だ。創作物ならともかく現実で他人に「たまえ」とか言う人間を、僕は彼女以外に知らない。

 壇浦先輩は、今初めて文字以外の景色が目に入ったかのように、僕とカップを交互に見つめる。

「あー……紅茶を淹れてくれたのかい。それはご苦労様だ、渡辺くん」

「他ならぬ数分前の壇浦先輩からの要望でしたからね」

「ちょうどいいタイミングだよ。いただこう」

 パタン、と図鑑サイズの本を閉じてカップを手に取る。どうやら、ちょうど読み終えたところだったらしい。

 腕や首を軽くほぐしながら、彼女はカップに口をつけた。そのまま一口飲むと、彼女は「ふう。やはり一読書終えた後のお茶は格別だねぇ」とか言っている。

 ちなみにティーセットは、二回生の僕が去年入部した頃から部室に置かれている備品だ。恐らく壇浦先輩の私物と思われる。詳しくは聞いていないが、それなりにお値段が張る代物らしい。

 無事にお給仕ミッションを終えた僕は、ようやく一息ついて壇浦先輩の隣に座る。それから、何の気なしに探偵部部室の中を見渡した。

 

 今日も凡礼大学は平和。

 平日の一限目が終わった大学。現在、探偵部にいる人間は僕と壇浦先輩だけ。部員も二人だけ。

「……相変わらず来ませんねぇ。依頼人」

「ああ。まったくもって遺憾だよ。探偵部を設立してはや二年。一人も依頼人が来ないどころか、注意しに来る教授すら来ないとは。もはやイジメ、いやイジメよりも悪質だぞ。これは二十一世紀最大のミステリー間違いなしだよねぇ渡辺くん?」

「僕からすれば、その二年の間に探偵部が廃部にならなかったことの方がミステリーですよ」

 僕も紅茶を一口飲む。うん、我ながら今日も旨い紅茶を上手く淹れられた。探偵部に入部させられてから、紅茶淹れのスキルばっかり上がってる気がする。

「で、この部の設立と維持と、それから予算をもらうために、一体何人の弱味を握ったんですか? 僕の予想じゃ両手の指は必要だと思ってるんですけど」

「そんなわけないだろう。片手で足りる」

 弱みを握った部分を否定してほしかった。てか、片手で足りるのか……。

 

 改めて教室内を見渡す。

 探偵部。約二年前、ちょうど僕が凡例大学に入学する一年前に、この壇浦先輩の趣味と、自分の推理力を活かすための場として設立されたとされている部活。

 活動内容は表の紙にも書かれている通り、『悩みを解決する』ことなのだが……冒頭でも言われている通り依頼人は未だ一人も来たことがないため、実質ニートの幽霊部活状態である。

 つか、そもそも知名度が無さすぎ。『謎の部活』すぎるのだ、この探偵部は。

 ロクに広報活動もしていないし、また広報活動としてプレゼンできるほどの実績があるわけでもない。この探偵部の存在を知っている生徒なんて、本当に部員である僕らだけなんじゃなかろうか。たぶん大抵の生徒はこの部活の名前をどこかで見たとしても、『まぁ見間違いだな。そんなキテレツな部活あるわけないし』とかで流してるだろう。

 ……本当に、なんで存続できているのだろうか。

「『探偵部』として、未だ一つの事件も解決していないというのはさすがにヤバいと思いますけどね。僕は一年、先輩は二年をこんな部活でドブに捨てちゃってるわけですし」

「そんなことはない……と言いたいけど、残念ながらその通りだね。さすがの私も、ここまで依頼人が来ないとは思ってなかったよ……」

「むしろどんだけの勝算があってアナタは探偵部を設立したんですか……」

「結局、今やコイツも文字通りのお荷物さ」

 そう言いながら彼女が懐から取り出したのは、USBメモリを一回り大きくしたような長方形の物体だった。

「なんですかそれ?」

「時限爆弾」

「…………」

「……おい。ちょっとは笑ってくれたまえよ、私が滑ったみたいじゃないか」

「いや滑ってんですよ。ここまで面白くない冗談久しぶりに聞きました。……で、実際はなんなんです?」

「ボイスレコーダーだよ」

「えっボイスレコーダー⁉ マジのっスか⁉」

 あぁ、見るかい? と壇浦先輩が渡してきたので、僕は丁寧に拝みとった。すげぇ。まさか大学生の内にボイスレコーダーを手に取る機会があるとは。

「最近の通販サイトって何でも取り扱ってるからすごいよね。探偵のひちゅじゅ……必需品かと思って、去年の内にネットで注文しておいたのさ」

「今噛みましたよね」

「ええいうるさい!」

 珍しく弱味を見せた壇浦先輩は、顔を赤くしてボイスレコーダーをひったくると懐に戻した。ちょ、まだちゃんと見れてなかったのに。このひちゅじゅひんめ。

「とにかくっ! 未だこの探偵部に一つの依頼も来てないのはヤバイということだ! そう、まるで電車通学なのにイヤフォンを自宅に忘れてきてしまったときのようにね」

「割と死活問題ですね」

 なんでイヤフォンでたとえたのかは謎だが。

「まぁ僕はこの一年、助手っぽい仕事はおろか、推理すらしてませんからねぇ……。お茶汲みしかしてない気がしますよ」

「あぁ、そこはあまり心配しなくても大丈夫さ、渡辺くん」

「どういうことっスか?」

 壇浦先輩に目を向けると片手だけを僕に向かって立てて、

「別に経験なんて積まなくても、元から君は『探偵の助手』としてはかなり優秀ということさ」

「と言いますと?」

「時に渡辺くん。探偵の助手に求められる能力はなんだと思う?」

「探偵役の皮肉に耐えられるメンタルっスか?」

「それも合っているが違う! 稚拙な推理能力と、飲み物を淹れる技術だ! 君はその点が非常に優れている! 天性の才能さ!」

「…………」

「だから安心したまえ! たぶん君は、『全国探偵の助手選手権』的なのが開催されたら、優勝は知らんけど予選突破は確実にできる。私が保証しよう」

「あれ、僕今ケンカ売られてます?」

 

 ……こんな感じのどうでもいいやり取りをして今日も過ぎていき、気づけばそんな日々を一年間繰り返していたのだが……今日は違った。

 コンコン、と音がした。

 その音に、僕も壇浦先輩も動きが止まる。

 扉がノックされている、と僕が気づいたのは、そうして部室内が静かになってからだった。と、僕が気づいたと同時に、先輩が「ああ」と言いながら手を合わせた。

「そうだ、思い出した。渡辺くんには言ってなかったけど、実は今日依頼の予約が入ってたんだ。喜ぶといい渡辺くん、記念すべき依頼人第一号だよ」

「へぇ依頼人……依頼人⁉ マジで依頼人⁉ 嘘でしょ⁉」

「嘘だよ」

 昭和のギャグみたいに椅子からずっこけてしまった。

「おいおい大丈夫かい? 大袈裟だなぁ」

 いけしゃあしゃあと言う壇浦先輩。この先輩、いつか絶対殴る。

「まぁ本命・冷やかしに来た生徒。対抗・注意しに来た教師。そして大穴で依頼人ってとこかな」

「探偵自ら依頼人の可能性を諦めないでくださいよ……」

 このやり取りの間にもノックは続けられている。

 壇浦先輩はずっとニヤニヤしたままで動く気配がないので、やむなく僕が「どうぞー」と言う。

 すると、鳴っていたノックがピタリとやんだ。そして二拍ほどの深呼吸でもしているかのような間のあと、ゆっくりとノブが回る。扉が開き、さっきまでノックをしていた者の姿があらわになった。

「あの……ここって、『探偵部』の部室ですよね?」

 そこに立っていたのは、教授ではなく生徒だった。それも女子生徒。雰囲気を見る感じ、僕と同い歳だろうか?

「ああ。世界がひっくり返ろうと、ここは探偵部の部室だけど」

 適当そうな態度で答える壇浦先輩。

 対する女子生徒は焦燥しきった表情で、もうワラであろうと縋りたそうな表情で言った。

「その、探偵部への……依頼を、頼みたいんですけど!」

 結果として正解は、大穴の依頼人だった。

 

 

 

「人文学部二回生……小説部に所属してます、文原(ふみはら)満(みちる)です。よろしくお願いします……」

 依頼人改め、文原さんはパイプ椅子に座り、傍らにバッグを置いて自己紹介した。

「これはご丁寧にどうも。私は三回生で部長の壇浦香取(かとり)。そこでお茶汲みをしているのはワトソン役の渡辺くん。覚えておきたまえ」

 依頼人第一号のくせに手慣れた感じで話している先輩。一見いつもと変わらない態度のように見えるが、その実彼女のテンションが上がっているのは不自然に上がっている口角でわかった。

「そんなに固くならなくてもいいよ文原くん。肩の力を抜いてくれたまえ」

「はぁ……」

 困ったような文原さん。まぁ、つい肩に力が入ってしまうのは当然だろう。

 現在の状況は、部屋の真ん中にある長机を壇浦先輩と文原さんが挟む格好で座り、さらにその先輩の後ろにお茶汲みの僕が控えているという状況である。見方によっては面接試験中の一コマにも見え、そんな状況で落ち着けるわけがない。

「ふむ。こういうときは何か飲んでリラックスするに限るね。文原くんは何がいい? 緑茶、紅茶、カフェオレ、コーヒー、水道水と各種取り揃えてるけど?」

「えっ、あ、ええと……じゃあ水道水で」

 不意に聞かれたから一番波風立たなさそうなのを選んだ、そんな感じだった。

「渡辺くん聞いていたね? では文原くんに良質な水道水を。私は紅茶ね」

「良質な水道水ってなんですか……まぁ世界からすれば日本のは充分良質ですけど。……ともかく、依頼人に水道水出すとか失礼ってレベルじゃないですよ。二人とも紅茶にしときますね」

 ブツクサ言いながら、僕は二人分の紅茶を準備していく。紅茶が出来るまでの五分ちょい、二人にはもう少し自己紹介と世間話にふけってもらった。

 

 紅茶を淹れながら密かに回想する。

 小説部。確か三回生が一人に二回生が文原さん含めて三人、そして今年の入部の一回生が二人ほどの、あまり大きな部活ではなかったはずだ。探偵部の一つ下である、特別棟二階の突き当たりに部室がある。

 だが同じ突き当たりの部屋でも、その価値は探偵部とは比較にならない。何年も前からちょくちょく結果を残しており、特に現三回生にして部長の国瀬(こくせ)章語(しょうご)さんなんかは、一回生の頃からいくつかの新人賞で賞を取っていたとか。

 そんなことを思ってると紅茶が完成した。二つのカップに注ぎ、「お待たせしました」と差し出す。

「どうも……」

 たとえ五分でも常人の身で壇浦先輩と話すのはキツかったのか、文原さんはちょうどいい助け舟が来たとばかりにカップを受け取った。

 ……何気に、壇浦先輩以外に紅茶を出すなんて初めてだ。バイト一日目のウェイトレスみたいに緊張してしまう。

カップを取り、口をつけるのを見守る。

「……あっ、おいしい……!」

「それはよかったです」

 ホッと胸を撫で下ろす。一年間のお茶汲み技術がようやく壇浦先輩以外に発揮された。

「はっはっは、渡辺くんの紅茶は格別だからね。渡辺くんさえよければ、私の専属にしたいくらいさ」

 一年間僕の紅茶を飲み続けた壇浦先輩が笑う。

 本音ならそれなりに嬉しいが、どうせこの先輩なのでいつもの冗談だろう、と結論づける。

「あっそうだ渡辺くん」

 そして実際冗談だったようで、壇浦先輩はすぐにケロッとした顔で席を立った。

「君にコイツを渡しておこう」

 そう言って渡されたのは、近くの百均で売っているような小さなメモ帳だった。

「……コレは?」

「依頼人ノートさ!」

 なぜか先輩は胸を張る。

「二年前、この部の設立とともに購入して、そして今の今まで寝かされていたノートさ! 使い方は簡単、事件が持ち込まれるたびに、その事件の簡単な概要と依頼人と犯人の名前を書き込んでいくだけ! これからの君の探偵道具としたまえ」

「はぁ」

 まじまじと観察してみる。二年寝かされただけあって、本はしっかりと埃を被り色もくすんでいた。汚い。

「しっかりやってくれたまえよ! いずれはコイツのぺージを、依頼人と犯人の名前でいっぱいにするのが私の夢だからね!」

「無事に潰えそうな夢っスね」

 二年間でやっと依頼が一件来るような部活なのに、このノートを使い切るだなんて夢のまた夢だろう。

 てか、依頼人の名前はともかく犯人の名前まで記録するのは、このご時世ではデジタルタトゥー化にも等しい死体蹴りだと思うのだが。

 

「あ、あのぅ……」

 成り行きを見守っていた文原さんが小さく声を上げる。

 しまった。完全にいつもの壇浦先輩と二人きりのノリで話してしまっていた。慌てて僕は壇浦先輩の隣に座る。

「それではコッチの準備はできたので、話してもらえませんか?」

 咳払い混じりに話を促すと、文原さんはまだ迷いがあるのか、しばらく僕と壇浦先輩を交互に見つめていた。

 だがやがて覚悟を決めたか、今はこんな不審者二人の手も借りなければならない状況なのだと諦めたか、ポツポツと話し始めた。

「その……先程も言いましたけど、私、小説部に所属しているんです。それで……まぁ、自慢ぽくなっちゃうんですけど、こないだのコンクールとかでも賞を取っていて……あ、もちろん部長ほどじゃありませんけど。その功績のお陰で、国瀬先輩からも広報係に推薦してもらえて、今その立場にいるんです」

「へぇ、そりゃすごい」

 先輩が短く拍手を送り、僕は短く情報をまとめていく。

「それで、もうすぐコンクールが近くて、私、今回も賞を取ってやろうって意気込んでたんです。ですけど……」

「何かあったのかい?」

「……他の大学はどうか知りませんけど……ウチの小説部って、小説を書くときは『直筆』に拘ってるんです」

「直筆」

 思わずといったように壇浦先輩が返した。

「はい。新人賞や学祭の前に小説を書くときは……もちろん最終的にはパソコンのWordに打ち込んで提出するんですが……その前の、部員の皆に提出するときは、Wordじゃなくて、原稿用紙に直筆で書いたものを提出しろっていうのが、その、ウチの部の決まりといいますか……」

「えっ……しょ、小説って、物によっては四千字とか五千字だとか、余裕で越えますよね? それを直筆で……?」

「この令和の時代になんと非効率な……。読書感想文じゃないんだぞ」

「どうも、ずっと前から顧問の拘りによって決められてることみたいでして……。国瀬先輩も『この決まりが無かったら途中で退部する人も減るんだけどねぇ』てよく愚痴ってます……」

 あるよなぁ、上の世代の変な拘りに振り回されること。

 小説部って思ってたよりも変な部活なんだな……。ウチが言えた話ではないけど。

「ともかく、つまり今はまだ作品はWordのデータじゃなくて、用紙として提出する段階なんだね?」

「そうです。……まぁ、学校で空いた時間に書いてるような人は、皆もう先にパソコンでやってますけどね……。用紙の方は、提出の前日の夜に家で徹夜で仕上げる感じです」

「ほんとに読書感想文のノリだな……」

「それで……その、私、今日はその用紙を部室に提出しようと思ってたんですけど……」

 

 そこで急に文原さんの表情が暗くなった。

「……何かしらあったんだね?」

 ようやく本題らしい。

 先輩の問いに頷く代わりに、文原さんは傍らに置かれたバッグから五枚の紙を取り出した。件の原稿用紙らしい。

 壇浦先輩が動こうとしないので、代わりに僕が受け取る。

 まず一番上の用紙を見て、

「……うわ。これはひどい」

 思わず呟いてしまった。

 原稿用紙には、縦書きの文字が踊っている──はずだったのだが、その文字の大半が黒マジックで塗りつぶされていた。

 塗り潰すだけでも飽き足らず、下の方の余白には同じ黒マジックで『つまんねー』『文才ないよ』『やめちまえ』という悪意に満ちた文字が書かれている。二枚目から五枚目も同様にだ。

 深く考えるまでもない。これらの要素が意味するのは、

「……この令和の時代に、また随分と原始的な嫌がらせだねぇ」

 僕が思ったのと同じことを壇浦先輩が言った。

 相変わらずの飄々とした態度だが、若干沈黙があったあたり彼女も何かしらの思いは感じていたのかもしれない。

「忘れないように、一時限目が終わってから持っていこうとしてたんですけど、ふと確認したときには、もう……」

「ふむ。となると、犯行時刻は朝から一時限の間か……」

 悲しげに目を伏せた文原さんに、壇浦先輩は顎に手を当てた。

「しかし、この五枚の用紙にこの密度で嫌がらせをして、しかも文原くんにバレないようにって、相当な手間と時間がかかってると思うのだが。気づかなかったのかい?」

「……その、今日はちょっと遅刻しそうになって急いで出たので、カバンのチャックが半分くらい開きっぱなしになってて……私が取ってる一限は人気が無くて履修してる人も少ないですし……それでその講義も、その、基本は、寝てるので……」

「おいおい、不用心の極みだな」

「身をもって実感してます……」

 壇浦先輩が呆れ返ると文原さんの顔が真っ赤になる。気の毒に思ったので、僕は慌てて別の話題へと移した。

「犯人に心当たりは? とりあえず、今日の講義で近くに座ってた人とかが候補に上がりますけど」

 考えているのか、返答にはしばらく間が空いた。

「わかりません……。講義で近くに座ってる人の顔なんて一々覚えませんし……でも、私のバックからこの用紙を発見して、即座に『小説だな』って思い当たったってことは……」

「同じ小説部の人かな」

 うぐ、と喉が詰まった。

 まだそうと決まったわけではない。ただ、その可能性はかなり高いように思えた。

「……正直に言うと、用紙をメチャクチャにされたこと自体はいいんです」

 文原さんの言葉に、僕と先輩が顔を上げる。

「……手間は手間ですけど、Wordに打ち込んだデータの方は無事ですから。それを見て、また書き直せば良いだけですし」

「…………」

「でも、誰かに……部員の誰かにこんなことをされたっていうことそのものが、とてもっ、悲しくて……!」

 言いながら文原さんは俯いてしまう。

 ……それも当然だろう。原始的であれ現代的であれ、嫌がらせは嫌がらせだ。受ける側のダメージは変わらない。

「もう誰も信用できなくて……こんなのじゃ執筆どころじゃありませんよ……。賞の提出期限も近づいてきてるのに、不安で不安で……!」

「それで、私達の出番ってわけか」

 泣き出しそうになっていた文原さんの言葉を、壇浦先輩が引き継ぐ。いつの間にやら、彼女は立ち上がって文原さんの傍まで来ていた。

「つまり私達は、この原稿用紙をメチャクチャにした犯人を突き止めればいいんだね?」

「はい……」

「よしよし泣くんじゃない。その依頼、受けようじゃないか。最初の事件としては申し分ない。渡辺くんも良いだろ?」

 壇浦先輩が訊いてくる。僕はため息をはいた。

「どのみち僕が拒否しても、先輩は訊かないでしょ」

「違いない」

 壇浦先輩が決めたことに抗議しても無駄というのは、去年僕を探偵部に引きずり込んだ際に散々思い知った。

「まぁ、というわけだ文原くん。この事件、我々が最善を尽くすと約束しようじゃないか」

「……よろしくお願いします」

 頭を下げ改めて頼み込む文原さん。対する壇浦先輩は力強く胸を叩いた。

「任せんしゃい。私が知ったからにはもう大丈夫。華麗に解決させてみせようじゃないか」

 ……正直に白状すると、この時の壇浦先輩はちょっとカッコよく見えてしまった。

 もしかしたら惚れ直したかもしれない。

 そんな僕の心境を余所に、壇浦先輩は場を仕切り直すように「さて」と言うと、

「ここまで来てこれを言うのもなんだけど、部活の顧問や先輩には相談したのかい? 特に部長の国瀬くんなんかは熱心な物書きだからね、こんな事件を知ったらいの一番に協力してくれると思うのだが」

 素朴な先輩の疑問に、文原さんは気不味そうに目をそらした。

「……とても、言えませんよ。もしかしたら先輩や顧問が、この嫌がらせに一枚噛んでる可能性だってありますし」

「えっいやそれは……」

 それはさすがに人間不信になりすぎじゃないか。そう口を挟もうとしたのだが、その前に壇浦先輩に制された。

「ふむ。どうやら精神的にかなり参っているようだね。心の余裕が無くなり攻撃的になっていく。こういうのが嫌がらせの真に面倒な効果だよ、渡辺くん」

「そういうものなんですか……?」

「そういうものさ」

 生憎、僕は嫌がらせというのを受けたことがない恵まれた人間なのでわからないが、そういうものと言われたら引き下がるしかない。

 壇浦先輩は紅茶を一口飲んでから自信満々に告げた。

「ならば、すぐさま事件に取りかかろうじゃないか。今日中に解決しよう」

「今日中⁉」

 叫んだのは僕だ。

 時計を見ると、現在時刻は既に二限目が始まっている十一時三十分。凡礼大学の一般生徒は、遅くても六時ぐらいには皆帰り始めるので……もう『今日』というのはあと約六時間しかないのだが……。

 ていうか、僕は今日昼で帰るつもりだったのだが。

「この程度の事件を一日で片付けられなければ、『令和のシャーロック・ホームズ』を名乗ることは到底できないさ」

「別に名乗る必要ないと思うんですけど……」

 僕の発言をスルーして、壇浦先輩は再びパイプ椅子にドカッと座り直す。

 そして片手に原稿用紙の一枚を取ったかと思うと、もう片方の手を顎に当てて押し黙ってしまった。どうやら推理モードに入ってしまったらしい。

 こうなると付き合うしかない。仕方なく、僕も原稿用紙の一枚を手に取る。……が、なにもわからない。

 文字とにらめっこしてみたり、ホラーゲームのアイテムみたいに太陽に透かして見たのだが……やはりというか、何も起きなかった。

「あの……何か思い浮かびましたか?」

 僕の行動を何か意味があるものかと思ったのか、文原さんがおそるおそる尋ねてくる。

 いやすいません文原さん、今のはアホな学生の、アホな行動なんです。

「ちょっとわかんないっスね……。せめてもうちょい情報がほしいというか」

 そもそもこの紙だけじゃ情報が少なすぎる。こういうのって、もっと聞き込みとかして情報を増やしてから犯人を絞り込んでいくものだろう。それをたった一日でやろうだなんて、それこそホームズでも呼んでくるべきだ。

「……そう、ですよね。……あ」

「壇浦先輩は? 何かわかりましたか?」

 

 部室でこれ以上悩んだって、ぶっちゃけ時間の無駄だろう。そう思った僕はさっさと次の方針を決めるべく、用紙の『つまんねー』という落書きをじっくり観察していた壇浦先輩に声をかけた。

「犯人の人物像の目星はどうにかついたね」

「そっかーやっぱり先輩にもわかんないかー」

 ダメ元なのであまり落胆はな……ん?

「とにかく今のところの犯人の人物像は、小説部所属で、突発的な犯行をしていて、文原くんと同学年で、文原くん個人に強い恨みを持っており、これまで部内で小説を提出したことがない人物だということぐらいしかわからないね」

「……は?」

 脳の処理が追いつかず、思わずアホみたいな声を上げてしまった。対面の文原さんも同じようで、口をポカンと開けている。

「ん? 渡辺くんどうした。そんな豆鉄砲食らったような顔して」

「壇浦先輩。さっきの台詞、もう一回言ってくれませんか?」

「渡辺くんどうした、そんな豆鉄砲食らったような顔して」

「そんな直前じゃないですよ! 二個前です!」

 三流のコントかこれは。

「犯人の人物像は、小説部所属で、突発的な犯行をしていて、文原さんと同学年で、文原くん個人に強い恨みを持っており、これまで部内で小説を提出したことがない人物だということぐらいしかわからないね、と言ったね」

「……えーと」

 僕は頭を抱えて壇浦先輩の言葉を整理する。

「なぜ、そう思うんですか?」

 たぶんこれがその場にいる者の総意だったと思う。ほら、文原さんも小刻みに頷いているし。

「ただの推理だよ」

 彼女は紅茶で舌を湿らせると、順番に話そうか、と原稿用紙を僕らに見えるように広げた。

「まず小説部所属。まぁ言うまでもないだろうけど、コンクール直前にこんなこと起こしたり、この用紙を見て小説だとわかったあたりからそれは確定だろう」

「……やっぱり、そうなんですね」

 悲しげに呟く文原さん。だが構っている暇はなく、壇浦先輩は用紙をトントンと叩く。

「次に、他人に嫌がらせをしたいのなら、こんな物的証拠を残すよりも、文原くんに直接脅迫をかければいい。そうせずに紙越しの脅迫、しかも匿名での手段に走るということは、相手はそれができない状況だった……もしくは急速に気が立ってしまい後先考えずやった……要するに突発的な犯行ということだ」

 そして次に、と壇浦先輩は指を立て、

「こういった嫌がらせは、ひとえに『相手が自分より賞を取るかもしれない』という劣等感によって行われるもの。だから既に賞を取りまくっている先輩の国瀬くんは除外される。後輩という線もないだろう。歳上の人間に嫌がらせをするのは、それ自体かなり勇気のいる行動だし、そもそも人間は歳上の者には対抗心よりも尊敬が湧きやすい生き物だからね。よって消去法で犯人は同学年」

「…………」

「次に、文原くんに強い恨みを持っている人物という点。この手の嫌がらせをしたいのなら、やることは最後の『つまんねー』や『文才ないよ』を書くだけで十分だろう。にも関わらず、原稿用紙は文字までもが手間暇かけて塗り潰されている。時間も限られていたはずなのに。まるで、彼女によって紡がれた文章そのものが忌々しいようにね」

 ……僕も文原さんも呆気に取られていた。予め渡された台本を朗読してるみたいに、スラスラと語るのだ彼女は。

「そして最後に、作品を提出したことがないだが……まぁこれは嫌がらせ文字がわざわざマジックの直筆で書かれている点からわかるだろ」

「いやわかりませんけど……どういうことですか?」

「筆跡を残してるんじゃ、匿名でできるという嫌がらせの利点を自ら捨て去っているようものだ。特に文原くんの小説部は、作品提出の際は直筆でないといけないのだから、顧問や部長の手元には四千から五千字もの『文字のサンプル』があるわけじゃないか。照らし合わされたら一瞬でバレるぞ。にも関わらずそれを気にせずに直筆ということは、犯人は他人に筆跡を見せたことがない、つまり作品を提出したことが無い者ということになる。……ただのアホという線もあるが」

 

 そこで自身の推理を言い切ったらしい先輩は、ようやく紅茶を一口飲んだ。そして「ふぅ。一推理終えたあとの紅茶もいいねぇ」なんて言っている。

 ……えーと。

 ……いや。いやいやいやいや。えぇ……。

「ん? なんだい渡辺くん、そんな野球場にラケットを持ってきた人間を見るような目は」

「いやー……ちょっと、引きました。正直怖いです、先輩」

「ふっ、褒め言葉と受け取っておくよ」

「どんな耳の構造してんですか……いや、この場合は『脳』ですかね?」

「さて、そういうわけだ文原くん」

「へ? は、はいっ?」

 口をあんぐり開けていた文原さんがようやく我に返った。

「聞いての通りだ。君の部活で、『同学年』で、『君に強く恨みを持っていて』、『作品を出したことがない』生徒はいるかな?」

「え、えーと……えーと……」

 情報を一つ一つ整理して頭の中で合致させているのだろう、文原さんは両の手で頭を抑える。

 だがそれは上手くいっていないようで、文原さんはウンウン唸っており頭から煙でも出しそうな勢いである。

 まぁ無理もあるまい。僕だって今の情報は飲み込むので精一杯なのだから。

 

「もう一つ、あるかな」

 ふと、完全に一服ついた格好だった壇浦先輩がまた口を開いた。

 おや?と思う。壇浦先輩がこんな風にもったいぶるような、歯切れ悪そうに言うのは珍しい。

「もう一つって……犯人の目星ですか?」

「そうだね」

 文原さんの問いに先輩はマジックで書かれた『つまんねー』という文字の部分を指す。

「『犯人は左利き』という点だ。私の観察眼が正しければ、これらの文字、塗り潰しは間違いなく左利きの人間によって行われている。字に特有の癖が出ているからね」

「く、癖……?」

 左利きの人間の書き癖? そんなの聞いたことないような。

「あまり有名じゃないからねぇ。でも、実際にそういう書き癖のようなものはあるんだよ。暇ならポケットに入ってるであろうスマホで検索してみたまえ」

 そう言って壇浦先輩は懐からシャーペンを取り出すと、右手、左手の順で用紙の端っこに『あ』という文字を並べて書いた。

「ほら。こうして見比べると一目瞭然だろう?右手で書いた字と左手で書いた字の違いが」

「いや、わかりませんけど……」

 ほら、なんて言われても困る。僕にはどっちとも同じ字に見えるのだから。

「まったく。よく見ればちゃんと違いはあるというのに、まだまだ甘いなぁ渡辺くんは。もっと目を鍛えたまえよ」

「……えっ、これ僕が未熟なせいなんですか?」

「そうだよ」

 そうなのか……。まぁ、僕にはわからないだけで左利きの字には特有の癖があるもんなんだろう。そう無理やり納得しておくことにした。

 僕の困惑を余所に、先輩は改めて文原さんに向き直る。

「というわけで文原くん、今新しく左利きというカードが増えたけど、どうだい? これが当てはまればかなり決定的だね」

「決定的……うーんと……」

 しばらく逡巡しているような間があったが、やがて「あ!」という声とともに文原さんは顔を上げた。

「……いました、一人。同学年で、私より先に入部していた『雪筆(ゆきふで)広美(ひろみ)』って女の子が……! 私に恨みを持ってそうで、まだ作品を提出したことがない娘……! 確かっ、左利きだったはず……」

「雪筆……聞いたことがないねぇ。あまり小説部では活躍してない子かな?」

「まぁそうですね……作品の講評会とかには出席しますけど、あんまり自主的に発言しませんし作品も提出しないから、目立たない娘というか……。それにあの子、確か一限で私と同じ授業受けてたはず……! もしかしたらその時に嫌がらせを……!」

「ふむ」

 続々とピースが嵌まっていったらしく、表情を明るくさせていく文原さん。

 そんな彼女を、壇浦先輩は腕を組みつつ呆れた目で見つめた。

「そんな決定的なこと、今まで忘れてたのかい」

「す、すいません。あまり私とは関わりのない娘なので……」

「まぁ、左利きなのも合っているなら、ほぼ決定かな」

 パチン、と指を鳴らす壇浦先輩。

「私の推理が正しければ、その雪筆くんとやらが九割九分犯人で間違いないよ」

「ほ、本当に……ですか?」

「ああ、間違いないよ。探偵を信じたまえ」

 そう言って先輩は時計をチラリと見る。……僕もつられて見てみると、まだ推理から三十分しか経ってない。……約五時間どころか、その十分の一の時間で解決させてしまった……。

 畏敬を覚えかける僕の横で先輩は優雅に紅茶を飲むと、

「文原くん。件の雪筆くんは、まだ学校にいるかい?」

「はい、たぶん……」

 少し自信なさげに文原さんは答えた。

「あの子、今日は四限まであるから、たぶん今は授業中かと……」

「よし。なら、四限が終わった後を捕まえよう。帰宅する者が多くなって人が少なくなった方が、面倒が少ないしね」

「直接会いに行くんですか?」

 質問したのは僕だ。

「当たり前じゃないか。推理ってのは犯人の前で披露してナンボだよ。それに万が一、名探偵である私の推理が間違っているという可能性も、無きにしもあらずだからね」

「は、はぁ」

 少し驚いた。まさか壇浦先輩の脳内に『もしかしたら自分が間違えてるかも』という認識があるとは……。

「今なにか失礼なこと思わなかったかい?」

「何も思ってません」

「ふぅん……まぁいいや。というわけだから文原くん、雪筆くんを捕まえるときは私たちも同行することになるけど、いいよね?」

「だ、大丈夫です! ど、どのみち私も一緒に来てもらうつもりでしたし……やっぱり犯人と一人で会うのは怖くて……」

「決まりだね。文原くん、この後の予定は?」

「えっと……今日は、私も三限と四限までありますので……このまま大学にいるつもりです」

「ふむ。ならその四限目の授業、途中で抜けることはできるかい?」

「大丈夫……だと思いますっ。授業の最初に出席確認済ますタイプなんで……」

「よし。じゃあ四限目の最後らへんで上手く抜け出してくれたまえ。私たちも大体それぐらいの時間に向かうから、近くで落ち合おう」

「は、はい!」

 トントンと話がまとまると、文原さんは学校生活に戻るということで部室を後にしていった。

 

 そうして再びの静寂が訪れた部室で再び紅茶で一服する壇浦先輩。

 そのときの壇浦先輩は、まるで企み全てが上手く行っている中学生のような笑みを浮かべていたのが印象的だった。

 

 空に仄かにオレンジが混ざり始める午後五時。

 講義以外であまり人の来ない六号館は、なんとも言えない不気味さを醸し出していた。

 事前に文原さんに教えてもらった教室前に来て、壁の影に隠れて文原と落ち合い共に待つこと数分。

「……あの娘です」

 講義が終わり、教室から吐き出されていく学生の波。

 その中で文原さんが指差したのは、波の最後尾に位置している女子大生。

 所謂ツーサイドアップというヤツか、長い髪を左右でそれぞれ束ねている。休み時間に小説部のインスタの写真で確認した通り、背も低めで童顔の、中学生にすら見えそうな女子大生だった。

 しかし、文原さんの証言及び壇浦先輩の推理が正しければ、彼女こそが文原さんに嫌がらせした犯人らしい。とてもそんなことしそうな人には見えないが……。

「人は見かけによらないものだよ渡辺くん」

「はぁ。そんなもんなんですかね」

「君だって、そんな地味そうな見た目に反して探偵部なんて奇天烈な部に所属してるじゃないか」

「ぐうの音も出ないっスね。てか、奇天烈な自覚あったんですか」

「あの、早く声掛けないと行っちゃいますよ……」

 焦ったような文原さんの言葉に我に返る。いつの間にか他の生徒はいなくなっていた。雪筆さんもなにやらキョロキョロとしているが、すぐに後を追ってしまうだろう。

「あ、そうですね。じゃ、下手に気づかれる前に声かけましょうか。あのー、雪ふ──」

「待て」

 呼び掛けた瞬間、目の前に壇浦先輩の手の平が付き出された。手の平にキスをしてしまいそうになり思わず口を引っ込める。

 僕を黙らせた壇浦先輩は自然な動作で壁の影から出ると、彼女は懐から紙屑を取り出し、何を思ったのかそれを雪筆さんに投げつけた。

 とはいえ物体の質量自体が小さいせいか、紙屑は緩やかな軌道で雪筆さんへ飛んでいく。

「おーい雪筆さーん」

 そしてその紙屑が着弾する直前で壇浦先輩は雪筆さんに声をかけた。

 ……哀れ。こちらを向いた雪筆さんには、その瞬間にほぼ眼前へと迫っている紙屑が見えただろう。

「ひっ⁉」

 小動物のような声を出し咄嗟に手を前に出して紙屑を掴む雪筆さん。その様に「ナイスキャッチ」とだけ呟く壇浦先輩に続いて、僕と文原さんも影から出てくる。

「小説部の雪筆広美くん、だよね?」

「あ、あなたは……?」

「私は壇浦香取。探偵部の部長さ」

「……探偵部? なんですか、それ……」

「細かい話はあとさ。それよりもその紙屑、開いてみたまえよ」

「紙屑……?」

 雪筆さんは手に握っていた紙屑をおそるおそる開いていく。開ききった瞬間、今度は彼女の目が見開かれた。

「これって──」

「知らないとは言わせないわよ雪筆さん!」

「ふ、文原さん……」

「アナタが盗んで、アナタがメチャクチャにした私の原稿用紙でしょ⁉」

 噛みつくように叫んだ文原さんに隣にいた僕は少し驚く。だが雪筆さんの驚きはもっと大きいようで、完全に混乱した目になり今にも泡を吹いて倒れてしまいそうである。

「アナタ、こんな方法取るなんて最低よ! いくら私が賞を取って、妬ましいからって!」

「ひっ……」

「私が書き上げた作品に、こんな嫌がらせして!」

「ち、ちがっ……知らないっ……!」

「言い逃れしようっていうの⁉ アナタが私と同じ一限の講義を取ってることなんて、調べればすぐにわかるのよ‼」

「ひぃっ……」

 ……もはやどっちが被害者かわからない。完全に立場が逆転してしまっている。陰湿な嫌がらせの告発現場なんて案外こんな感じなのかもしれないけど。

「そっ、そもそもっ……」

「はい?」

「そもそもっ、何で、私が犯人って……!」

 ほぼ悲鳴のように上げられた言葉に、文原さんは伴侶でも紹介するように傍らの壇浦先輩を指差す。

「そこの探偵部の人が推理してくれたのよ!」

「た、探偵部……?」

 ようやく先の壇浦先輩の発言との合点がいったらしい。雪筆さんが先輩を見つめる。壇浦先輩は小さく笑いながら、俳優のような仕草で一つ前に出た。

「改めまして、壇浦香取だよ。『自分の作品に嫌がらせされた』という文原くんの依頼を受けた者だ」

 彼女のその言葉に文原さんは胸を張り、雪筆さんは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

「まぁこの事件の真相なんて、ほとんど最初からわかっていたんだけどね」

「ほんと、なんで今まで頼らなかったのかなぁ。この先輩、頭もよくて、すごく役に立つのに」

「誰が考えてもわかるよ。この事件が自作自演だっていうのは」

「そうそう……え?」

 『え?』は思わず部外者である僕も発してしまった言葉だった。

 

 今なにか、壇浦先輩はおかしなことを言わなかったか?

 それが聞き間違いだったのかと確かめる暇もなく、壇浦先輩はまるで舞台の上にでもいるかのように、悠然とある人物へと指を差した。

「犯人は君だよ。文原くん」

 驚愕したのはむしろ僕だった。

「ちょっ! どういうことなんですか壇浦先輩⁉ 依頼人が犯人だなんて!」

 だが僕の驚きにも、壇浦先輩は冷静さをもって答える。

「言った通りさ。文原くんでなければこの事件……いや、自作自演は行えない」

「自作自演⁉」

 今度は文原さんだ。

 瞳をこぼれ落ちんばかりに開き、さっきまでの上機嫌さはどこへやら、真っ直ぐに壇浦先輩を睨みつけている。

「自作自演って、どういうことよ⁉」

「どういうこともなにも……聞いて字のごとく。この『事件』は自作自演の嘘。そして、それを行った犯人は君だ。私の推理によればね」

 文原さんの怒声にも平然と答える。さっきまでと一転、場は静まり返ってしまった。

「……なんで、そう思うんですか?」

 この場を代表して質問する。

 恐らく、先の発言には何か彼女なりの考えがあるのだ。壇浦先輩は意味もなくこのようなことを──まぁ言いそうな人ではあるけど──とにかく言わないはず。はずなんだ。

「じゃあ、解明パートといこうじゃないか。そのために、わざわざここまで文原くんに着いてきてもらったのだからね」

「え?」

 文原さんが声を上げたのを無視し、壇浦先輩は一枚の紙を懐から取り出した。

 何も書かれておらず、文原さんが出したのと同じような大きさの白紙の紙だ。

「私が今回の事件で一番気になったのは、『なぜ犯人がわざわざ紙越しの脅迫という手を使ったのか』という点だよ」

「それは……『突発的な犯行だから』って自分で結論出しませんでしたか?」

「それは半分正解で半分不正解なんだよ。振り返ってみたまえ渡辺くん。今回のこの事件、犯人の目的はなんだとされてきた?」

「それは……嫌がらせ、じゃないんですか?」

「まぁ正解だ。それで? 嫌がらせをして、犯人は具体的にどういう状況にしたかったんだ?」

「どういう状況……? 嫌がらせをして、被害者を不快な気分にさせて……執筆を妨害すること、ですか?」

「今度こそ正解だ。そう、犯人の目的は被害者の執筆を妨害することなんだろ? だったらさ、こんな原稿越しの……ひいては脅迫なんて回りくどいことするよりも」

 そこで先輩は取り出していた紙を両手で持ち直すと。

 そのまま真っ二つに破り割いた。

「──こんな風に、破って捨てればいいじゃないか」

「あ」

 思わず口を開けてしまう。

 その間にも壇浦先輩は紙をまた何回かに分けて破ると、そのままクシャクシャに丸めて上着のポケットに突っ込んでしまった。

 ……これで、形があった用紙は完全に消失したことになる。

「推理小説じゃあるまいし、こんな紙越しの脅迫なんて精神的な方法に走らなくても、その用紙とやらを隠してしまえばいい。他にも、もっと本気でやるならパソコンに保存されているデータそのものを消去するとか。とにかく、そういう物理的な手段に走ればいいんだよ。本当に執筆を妨害したいのならね」

 そう言って彼女は雪筆さんが持っている用紙に視線を移す。

「その点、この脅迫犯は妙に律儀というかバカ正直というかで……そこから怪しかったよ。こんな風に物的証拠が残るように脅迫をするなんて、自分の首を締めるようなものさ」

 現に今、こうして探偵部に証拠として届けられたわけだしね、と壇浦先輩は文原さんを見た。

 文原さんは黙ったまま唇を噛んでいる。

「ではなぜわざわざこんな手に走ったのか……。理由は二つ推測できる。一つ目は犯人がそんなリスク計算もできないアホだった。そして二つ目は、誰かに発見させたかったか、だ。私は後者と睨んでいる」

「発見……させたかった?」

「この場合は『誰かが発見してもおかしくない状況にした』の方が正しいのかな。なにせこれは自作自演だからね」

「あ、あのう……」

 どんどんヒートアップしていく壇浦先輩の推理に、さっきまで天敵に追われるリスみたいに縮こまっていた雪筆さんが手を上げる。

「あたし、話の流れ全然把握してないんですけど……結局、どういうことで……?」

「結論から言うとだ。本当は雪筆くんが被害者で、文原くんが加害者ということ。そしてもっと言うなら、文原くんが持ってきた原稿用紙。アレも、本当は雪筆くんの物なんじゃないかい?」

 雪筆さんが息を呑み、文原さんが歯を食いしばったような気配がした。僕はというと先輩の推理を飲み込むのでいっぱいいっぱいである。

「かっ……仮に先輩の推理が真実だとすると……えっと、つまり、文原さんは雪筆さんが持ってきていた作品を自分のだと言い張って部室に持ってきてて……自分で行った嫌がらせを、あたかも他人にされたかのように言ってたってことですか⁉」

「私はそう思っている」

 それだけじゃない。元は雪筆さんが書いて持ってきていたものだった紙を、文原さんが自分の作品だと言いながら持ってきたということは……彼女は、他人の作品を盗作していたということになる。

「……な、なんでそんなことを?」

「雪筆くんが何か言う前に『証人』を作りたかったんじゃないかな。現に私たちは、あの作品を文原さんが書いたのだと思い込んだし、それを元にして雪筆くんが彼女に嫌がらせをした、という推理を弾き出したわけだからね」

 

「いい加減にしなさいよっ!」

 そこで言われっぱなしだった文原さんが空気を切り裂かんばかりに大声を上げた。

「話にならないわ! 雪筆の前で推理を披露するはずだったのに、なんで急に私を犯人呼ばわりするの⁉」

 目を血走らせんばかりに叫ぶ文原。

 まぁある意味、彼女の怒りはもっともだ。僕とて、あそこまでじゃないとはいえ大体文原さんと意見は同じである。

「っ、そもそも! アナタが言ったんじゃないのよ!」

 バッ、とあの原稿用紙が指差される。

 雪筆が持っている、『つまらねー』というマジック文字が書かれたあの原稿用紙が。

「アナタが、これに書かれている文字を左利きの文字だって!そう言ったじゃないのよ! そして雪筆さんは左利き! もうコレで決まりじゃないの!」

 えっ、と驚く雪筆さんを尻目に文原さんは噛みつくように言う。

「あー、あの推理のことかい」

 だが壇浦先輩は微動だにせずポリポリと後頭部を掻く。

 そして、日常会話の延長のように言った。

「ごめん、それ全部ウソだよ」

「「は⁉」」

 僕と文原さん、ハモった。そんな僕らに、彼女はいけしゃあしゃあと告げる。

「正確には、最後の利き手の部分だけ嘘かな。知らないよ右利きと左利きの字の違いなんて。筆跡鑑定の人間じゃあるまいし、一介の女子大生にそんなことがわかるわけないだろ」

 開いた口が塞がらない、とはまさにこの事だった。

 ホームズ役が推理でウソをつくなとか、そういったツッコミさえも入れる気にもなれない。

「が、私のそうしたデタラメ筆跡鑑定にも、文原くんは乗っかってきた。……さて話は変わるが、時に渡辺くん。私の利き手がどっちだかわかるかい?」

「へ?」

 本当に話が変わったため、バカみたいな声を上げてしまった。

引っ掛けを疑いつつも、まぁ母集団が多い方に賭けることにする。

「……右利きですか?」

「残念。実は私、両利きなんだよ」

「えっ⁉」

 予想外の答えが返ってきた。

「用紙に字を書いたとき、私が両方の手で違和感なく『あ』を書いていたのを忘れたのかい。もっと物事を細部まで見る癖をつけたまえ……とまぁこのように」

 唖然とする僕を尻目に、先輩は語気を伸ばしてデモンストレーションであったことをアピールする。

「人間はね、案外他人の利き手なんて把握してないものなんだよ。友達二年目にして、その友達の細かい動作を見て初めて『え、お前左利きだったの⁉』て驚くこともあるだろう?」

 確かに無くはない。誕生日や血液型はともかく、利き手なんてのは自己紹介でもあまり言うことじゃないだろうし。

「そんな付き合い一年の私たち間でも把握してない物を、『あまり関わりの無い』君たちが把握してる可能性は限りなく低いよねぇ。増してや君ら、学校で小説を書くときは基本パソコンで打ち込んでるそうじゃないか。シャーペンを持ったりする機会が少ないんじゃ、利き手を把握する機会も少ないだろう。にも関わらず、文原くんは雪筆くんを左利きだと断言した。言うならばそれそのものが証拠」

 いつの間にやら、文原の顔には冷や汗が浮かんでいた。

「改めて真相を話していくとこうだ。今日一時限の講義でたまたま雪筆くんの隣に座った文原くんは、雪筆くんのバックから見えた原稿用紙を、隙を見て盗んだ。講義に来ている人は少なくて、その時おそらく雪筆くんは寝ていたのだから、タイミングさえ見計らえば難しいことではないだろう。そしてその用紙に嫌がらせ文を自分で書いて、それをあたかも自分が持ってきた原稿用紙にされたことのように探偵部に依頼として持ってきた、てことさ」

「なぜ、そんな回りくどいことを?」

「それは私の管轄外だ。まぁ、文原くんが『盗作』する前に雪筆くんが作品を完成させてしまったとか、そんなとこだろ。先にも言った通り、突発的な犯行だろうし、今文原くんと雪筆くんの間にある明らかな力関係から、おそらく『盗作』も初めてじゃないだろうしね。そして、文原くんは探偵部に依頼して自作自演することを画策した。雪筆くんが君の原稿に嫌がらせしたことにして、私たちがそれを元に雪筆くんを糾弾すれば、めでたく雪筆くんは加害者になり、被害者である君が持ってきたこの原稿用紙は、必然的に君のものということになる」

 なるほど。要するに探偵部は体よく利用されたってことだ。

 文原が原稿を自分のものにするためと、犯人を雪筆さんだと断定するときの『取り巻き』にするために。

「当初の君の計画では、相談という体で君が少しずつ雪筆くんに繋がる『ヒント』を出す予定だったんだろうねぇ。だが、私が想定外に色々とソレっぽい推理を披露し始めて、手助けする間もなくもし雪筆くんが左利きなら、彼女の犯人化は確定という感じだった。だから君は急遽計画を変更して、知りもしないのに彼女の利き手を左利きだと言って犯人を確定させようとしたのさ。見たところ雪筆くんは気弱で怒鳴られたら縮こまるタイプだから、違ってもゴリ押せば行けると思ったんだろうねぇ」

 

 ふと思い立ち、僕は呆然と立つ雪筆さんの手元を見てみた。

 最初に壇浦先輩が投げていた紙屑を……彼女は右手でキャッチしていた。……人間は、咄嗟の行動には利き手が動くと言われている。……一体、何手先から手を打っているんだ? 彼女は。

「ま、こんなとこかな。雪筆くんが過去に作成した小説を残すタイプなら、彼女のパソコンを見せてもらえばゴロゴロ出てくるんじゃないかねぇ。『君が執筆して賞に提出した』とされてきた、雪筆くんオリジナルの作品が、プロットとか諸々も含めて」

 プロットとは、作者が本文を書く前に作る、作者用の設定資料集のようなもの、物語の設計図だ。もちろん作らない人もいるが、大抵の作者は設計図も無しにいきなり本文から書き始めたりはしない。キャラの性格や、時には本編では明かさない裏側も設定してから書き始めるのだ。

 

そのプロットがもしも、雪筆さんのパソコンに残っていたとしたら……。

「そうでなくても、一旦文原くんに関する一切の信頼をゼロにして二人の話を聞き比べれば、次第に文原くんの方にボロが出るんじゃないかなぁ。所詮、嘘は嘘だから」

 

 そこまで話し切った壇浦先輩は、手元にあるカップを取るような動作をして「あ、今は部室じゃないんだった」と手を引っ込めた。

 壇浦先輩の長い演説が終わると、必然的に皆の視線は文原さ──いや、文原へと向けられた。

 文原はしばらく俯いていた。前髪が邪魔でその表情は見えない。

 だがやがて、

「……そうよ」

 腹の底から出たような声が聞こえた。

 咄嗟に誰の声かわからなかった。かろうじて声が聞こえた方向から、もしかして文原の声だったのかと思えたぐらいだ。

「ここまで暴いてくれなんて頼んでなかったんだけど。台無しじゃない」

 果たして、声の主は文原だった。

 部室に来たときのオドオドした顔はどこへやら、今の彼女は鉄仮面のような無表情を顔に貼り付けている。あまりの変貌ぶりに戸惑いながらも、僕はなんとか問いかける。

「……なんで、こんなことを?」

 いざこういう場面に直面すると定型文しか出ないものだった。そんな僕の問いを、文原は鼻で笑う。

「なんでってそりゃ、楽して賞を取りたいからよ。盗作の理由なんて、それ以外に必要?」

 悪びれる様子すらなかった。

 月並みな表現だが、文原の真っ黒な本性がようやく表に出たということなのだろう。

「てことは、認めるんだね? 一連の自作自演、及び雪筆くんの作品を盗作していたことも」

「こーんな嘘ばっかつく探偵に頼むんじゃなかった。もっと愚直に真面目に働く探偵役を使えばよかったわ」

 文原の言葉は、先の壇浦先輩の確認を認めたのと同じだった。哀れな嫌がらせの被害者の仮面も捨てて、ただの加害者として目の前に佇んでいる。

 文原の瞳が、ギョロりと先輩の方を向いた。

「あなた、それでも探偵なの? 真面目に推理せず、嘘と鎌かけだけで犯人を追い詰めてくなんて、恥ずかしくないの?」

「依頼の段階で嘘をついている人間に、真面目に推理してやる義理はないね」

 

 皮肉の応酬。

 依頼内容を話していたときの文原と先輩からは想像もつかないやり取りだ。僕は女性が日頃被っている外面の厚さに恐怖しそうになった。

 先輩とのやり取りを一旦切り上げたらしい文原は一度息を吐くと、そこから何故か僕に視線を向けた。

「これから、どうする気?」

「えっ。どう、するって……」

 僕としてはこの急展開についていくだけで必死だったので、たらい回すように壇浦先輩に視線を向ける。

 先輩は静かに腕を組んだ。

「まぁ私としては、基本的に小説は読む専だし小説部との関わりも無いしで正直どうでもいいけど……真面目に書いている人たちにとっては許せない事件だろうねぇ。というわけで、君たちの顧問か部長の国瀬くんに報告かな」

「ふふっ、ふふふふっ!」

 壇浦先輩の言葉を受けた文原さんは、突然笑い出した。

 犯人の仕草としては使い古されたものかもしれないが、実際に相対すると怖いことこの上ない。追い詰められているはずなのに、文原の笑い方は嘲笑を含んでいた。

「ご自由にどうぞ。どうせ無駄だから」

「……どういうことですか?」

 尋ねてみる。雪筆さんはこの後の展開がわかっているかのように俯いていた。

「実績がある私の言葉と、知名度もないあなたたち二人の言葉、部員の皆はどっちを信じると思う?」

 なるほどそういうことか。僕は思わず下唇を噛む。

 対して壇浦先輩は呆れながら言った。

「実績って……盗作小説で積み上げた物のくせによく言うよ。その実績は本来雪筆くんが持つべきものであり、君のじゃない」

「そうね。だけど、もう雪筆は泣き寝入りしたから、この実績は私の物なの。そして、実績があれば国瀬先輩や顧問も私の方を信じるのよ。『君は天才だ。賞も取れる実力もあるし人当たりも良い。そんな君が盗作なんてするわけがない』てね」

 その様が容易に想像できたか、文原は笑みを濃くし、雪筆は泣きそうな顔になる。

「だから、あなたたちが何を言っても無駄。むしろ雪筆が探偵部と共謀して私を陥れようとした、という話にもできるのよ」

 雪筆さんがビクリと肩を震わせ、僕もまた背筋に悪寒が走っていた。まさかこれほど黒い人に現実で会うことになるとは思わなかった。

「だ、壇浦先輩……」

 男として情けないのは承知だが、それでも助けを求めるように彼女に視線を向ける。

 だが壇浦先輩は、さっきまでの威勢はどこへやら、無表情のままそこに立っていた。それからポツリと呟く。

「なるほど。確かにこれは分が悪そうだ」

 壇浦先輩の言葉に、これまでとは別の意味で耳を疑いそうになった。

「残念だけどその通りだね。嘘でも実績がある文原と、事件解決もせずニートしていた私たち探偵部とでは、信用の差は明白だろう」

「そんな……」

 完全に勢いを無くした壇浦先輩の言葉。彼女の態度に文原は勝ち誇った顔になる。

「自分の実績の無さを恨むのね。ま、だから私はこの探偵部を使ったのだけど。万が一失敗しても、いくらでも誤魔化せるように」

「ああ。せっかく君が失敗してくれたのに、私たちの言葉ではいくら言おうと無駄だ」

 ここまで解き明かしておいてダメなのか。端から聞いていた僕が絶望しかけていた時、壇浦先輩は出し抜けにポケットに手を突っ込んだ。

「だから、君の言葉で伝えさせていただこう」

 彼女が取り出したのは、長方形の小さな物体だった。

 ピタ、と一時停止したように文原が止まった。数秒ほど経つとワナワナと震え始め、信じられなさそうに彼女の手元にある物体を指差す。

「な……なによ、それ」

「ボイスレコーダーだよ」

 サラリと先輩は言った。

「私の言葉じゃ信用してもらえないだろうからねぇ。確実に皆様に信用してもらえるように、ここに来てからの会話を録音しておいた。いやー、ちゃんと事件があれば役に立つんだねぇボイスレコーダーって」

 人差し指を動かし、ボイスレコーダーのスイッチを切るような動きをする。

 その動作に僕はどこか違和感を覚えたのだが、それを確かめるより先に文原が動いた。

「それっ……渡しなさいよっ!」

 さすがに彼女もそれが不味い物だということはわかったらしい。

 彼女の発言の信憑性は彼女自身が知っている。そうでなくても録音音声なんて証拠としては十分だ。

 文原はすぐにでも奪い取ろうと壇浦先輩へ手を伸ばす。

「おっと危ない。貴重な証拠だぞ、渡すバカがどこにいる」

ボイスレコーダーを握り込んだ手を上にやったりと、壇浦先輩は 文原の突進を大気を舞う落ち葉のようにヒラヒラかわしていく。巻き込まれない程度に距離を取りながらも、なんとなく僕は予感を覚え、身構えていた。

 

 そして予想通りというか、不意に壇浦先輩の目が僕の方を向いてキラリと光る。

「へい渡辺くん、パスだ!」

 黒光りする物体が僕の方へと投げられる。

 その行為自体に驚きはない。むしろ彼女の性格から、撹乱のために一回は絶対僕の方に投げると思っていた。

 正直受け取りたくないことこの上ない品だったが、もし取り落としでもしたら犯人に証拠を奪われてしまうことになるので、受け取らないわけにはいかない。

「はいはいわかりましたよパス……って! 先輩どこに投げてんですか⁉」

 

 だが、結果は予想通りには行かなかった。

 当初の予想では僕の手元に落ちるはずだったボイスレコーダーは、その予想の文字通り斜め上を抜けてあらぬ方向へ飛んでいってしまった。そしてそのまま、開け放たれていた窓から校舎の外へ落ちていってしまう。

「ちょ、これ、どうす──」

「っ!」

 慌てて指示を仰ごうとする前に、僕の体は突き飛ばされた。文原によって。

 彼女は、さながらボールを投げられた犬のように一心不乱に飛び出し、そのまま凄い音を響かせながら階段を降りていった。おそらくボイスレコーダーを拾いに行ったのだろう。

 一瞬の出来事で、カマイタチでも通りすぎたようだった。

 

「大丈夫かい?」

 さっきまでの騒ぎが嘘のように静まり返った廊下で、壇浦先輩は尻餅をつく僕に手を差し伸べる。

 その手をなんとか取りながら、

「僕は大丈夫ですけど……証拠は大丈夫なんですか? あのままじゃボイスレコーダー取られちゃいますし……ていうか、壇浦先輩ノーコンなのになんで僕に投げつけたんですか?」

 抗議の意も混ぜた疑問をぶつけると、壇浦先輩は「ああ」と小さく笑った。

「大丈夫だよ。私が取り出して投げたアレ、ボイスレコーダーじゃないから」

「は?」

 思考が飛んだ。

 壇浦先輩はポケットに手を突っ込むと、そこからもう一つのボイスレコーダーを取り出してみせた。

「えっ……なんでボイスレコーダーが二つも? いつの間に買い足して──」

「なわけあるか、犯人の前で重要証拠を見せびらかすバカがどこにいる。校舎の外に投げたアレは偽物、私の自前のUSBメモリさ。まぁ形も似てるし手の中に握り込んでたし、相手は冷静さを失ってるしでイケるかなと思ったけど、無事に騙されてくれたねぇ」

「…………」

 はっはっは、と笑う先輩に僕は額を抑えた。

 もうなんというか、ここまで来ると称賛より先に呆れが出てくる。この人、嘘とハッタリだけで生きてるなぁ……。

 壇浦先輩はボイスレコーダーのスイッチを改めて切ると、またポケットに戻した。

「さ、じゃあ文原くんがエサを夢中で探してる間に退散しようか。グズグズしてると、犯人が現場に戻ってきちゃうよ」

 壇浦先輩が撤収の用意をするので、慌てて僕もついていく。二十歳にもなって、女性にボコられて死ぬのはゴメンだ。

 去り際、壇浦先輩はポカーンとしてた雪筆さんに視線を向けると、

「君も早く帰った方がいいよ。このボイスレコーダーは、私が責任持って小説部に届けるからさ。話はまた後日改めて」

「えっ、あ……は、はい」

 まだいまいち状況を理解できてなさそうな声を上げながら、雪筆さんはおぼつかない足取りで現場を離れていった。

「さ、私たちも帰ろうか。小説部の部室ってどこだっけ」

「探偵部に帰る途中で寄れますよ」

 適当に話しながら歩き始める。そして特別棟の入り口に差し掛かったあたりで、「あっ!」と壇浦先輩が唐突に驚いたような声を出した。

「うわっ。先輩、急に驚かないでくださいよ、驚くじゃないですか」

「しまった……」

 文句を言う僕だが、なぜか壇浦先輩はいつにもなくワナワナ震えている。

「ど、どうしたんですか?」

「私が投げたUSBメモリ……アレの中に、提出期限明日までのレポートのデータ入ってるんだった……」

「えぇ……」

 びっくりするほどどうでも──良くはないけど、くだらない懸念事項だった。

「どうしよう、今から文原くんとの争奪戦に参加して回収できるかな?」

「無理に決まってるでしょ……見つかったら最悪殺されますよ。特に先輩は」

「ちょ、確か渡辺くんも同じ授業取ってたよね⁉ レポートは⁉」

「今日徹夜で考察書けば終わります」

「ならそこまででいいっ、頼むデータを送ってくれ! ちゃんと内容は変えるからっ! 今から一からやるのは、労力とかその他諸々で無理だ! せめて骨組みが欲しい!」

「……まぁ、クオリティが保証できないので良ければ良いですけど。あと剽窃とは絶対バレないようにしてくださいよ」

「大丈夫だ! そこは上手く誤魔化すから!」

「今日イチで信憑性のある発言来ましたね」

 適当に言い合いながら、僕たちは小説部の扉を数回ノックした。

 

 三日ほど経った後。

 二時限だけの今日の講義が終わったので、僕は昼飯も兼ねていつものように探偵部へ訪れていた

 何の気なしに部室の扉を開けると、

「やぁ渡辺くん。今日は少し遅かったねぇ」

 事件解決の立役者である壇浦先輩が、椅子に座ってクッキーを食べていた。見た感じ、店で売られているちょっとお高めの物のようである。

「教授の雑談で講義が長引いたんです……。なんですか? そのクッキー」

「実は今日、雪筆くんがわざわざ部室まで届けに来てくれてねぇ。『助けてくれたお礼』だそうだ。いやー、良いことをするのは良いことだねぇ」

 初めは二十枚ぐらいあったと思われるそのクッキーは、壇浦先輩が平らげていくせいでもう五枚ほどしかなかった。

 ……まぁ確かに。文原の虚言を見抜き、真実を導き、そして流れで雪筆さんへの嫌がらせまで解決してみせたのだ。これぐらいの報酬はあってしかるべきなのだろうが……。

 だが、

「まぁ……名ハッタリでしたもんね、壇浦先輩」

「おいおいおいおいおい。そこは素直に名推理だと言ってくれよ。まるで私が常日頃から嘘を付きまくって事件に挑んでいるようじゃないか」

「割と的確じゃないですか」

 いや、的確は言いすぎかもしれない。

 しかし、あの一連の解決までの流れを『推理劇』と認めてしまうと、なんだか色んな方向から色んな方々に怒られてしまうような気がする。推理というよりもはや『駆け引き』と呼ぶべきだろう、アレは。

「まぁ許したまえよ。ハッタリを言わない探偵なんて、タコの入ってないタコ焼きのようなものだからね」

「絶対探偵の中でハッタリそんな大きな割合占めてないでしょ……」

「終わりよければなんとやらだよ。クッキーいるかい?」

「もらいます」

 終わりよければねぇ、という言葉を僕はクッキーと共に噛み砕く。

 雪筆さんは相当律儀な女子だったようで、僕の方にも昨日わざわざお礼を言いに来てくれていた。

 概ね壇浦先輩の推測通りだったというか。

 雪筆さんは一年の頃から優れた文才があったが、それに目を付けた文原に脅され、作品を盗作されていたらしい。元来気弱なのもあって、最初の数回は『今回だけだろう』と泣き寝入りしていたのだが、盗作は以降も続き、真実を訴えようにもいつしか実績が積み上がり広報係にまで登り詰めた文原に、部員はほとんど味方してしまっていたらしい。

 なので今回のコンクールでは、早急に作品を書き上げて盗作されるよりも前に提出しようとしていた──というのが真相だったようだ。……が、それを執筆活動の疲れからか眠ってしまった間に運悪く文原に見つかり……ということだったらしい。

 ちなみに「そういう話こそ探偵部に依頼してくれればよかったのに。なんでしてくれなかったの?」と僕が聞くと、雪筆さんは困ったような顔で

「だ、だって……そもそもこの大学に『探偵部』っていう部活があること自体、私今初めて知りましたし……」

 と答えた。

 

 うん、じゃあしょうがないな。返す言葉もない。

 そして文原だが──その後については、壇浦先輩は「私が興味あるのは事件であって、犯人の顛末は興味ないよ」と調べようとしなかったし、僕もあまり興味があるわけではないので詳しくは知らない。

 ただ、「退部させられた」とか「過去の受賞を取り消しされた」というのを風の噂で聞いた。噂なので真偽の程は不明であるが。

「一応これで、『一件落着』てことなんですかね」

「事件を持ってきた依頼人が犯人だったんだから、そもそも『一件』があったのか微妙だけど、まぁ『落着』ではあると思うよ」

 サク、とクッキーの最後の一枚をかじる壇浦先輩。

 

 こうして我が探偵部初の依頼は、依頼そのものが嘘だったという形で終わった。……なんとなく僕ららしいオチのような気はする。

「しっかしこれ、ノートにはどう書いたものか……」

 渡された依頼人ノートを前に、頭を捻らせる。記念すべき最初のページから、『依頼人』と『犯人』の欄に同じ名前が踊ることになってしまっている。幸先が悪いなんてレベルじゃない。

……てか、これはそもそも『事件』と呼べるのだろうか。先にも言った通り『一件』があったのかすら微妙なんだから……『ゴタゴタ』とでも評した方が良いような気がする。

 僕がどう誤魔化そうか悩んでいると、不意に紅茶による一服を済ませたらしい壇浦先輩が騒ぎ始める。

「さぁ渡辺くん! これから忙しくなるぞっ!」

「ちょ、急に大声出さないでくださいよ。今探偵ノートに書く文章考えてるんですから」

「んん? おいおい渡辺くん、ノートに字を大きく書きすぎじゃないかい?」

「そうしないと行埋められないんです。で、何で忙しくなるんです?」

 話を元の流れに戻すと、壇浦先輩は僕の顔に人差し指を突きつけた。

「こうして我々は始まりの事件を無事解決した! そうなれば、次はどうなると思う?」

「なんですか? 『犯人にダシとして利用される探偵部』として大学内の笑い物になるんですか?」

「まぁそれも違わないな!」

 違っていてくれよ。

「ようやく探偵部の活動としてプレゼンできる実績ができたということさ! この功績があれば、きっと探偵部の知名度は広まり、依頼も加速度的に集まって来るぞ! あっそうだ、雪筆くんは小説部だったし、いっそのことこの事件をノベライズしてもらうのもいいかもしれん!」

「……色々と言いたいことはありますけど、とりあえずノベライズするんなら人名と大学名は偽名にしておいてくださいよ」

「もちろん言っておこう! ああ楽しみだ! こうして明日からは、様々な謎がこの探偵部にやってくる! ようやく私の頭脳が発揮されまくる日が来るわけだな!」

「どうでしょう……」

 子供のようにこれからの展望を語る壇浦先輩に、僕は苦笑いを二乗したみたいな顔になる。

 果たして依頼人第一号に犯人が来るような探偵部に、これから依頼しようなんて思う第二号はいるのだろうか。

 まぁそれはきっと、誰にも、部長の壇浦先輩にも、かのホームズにもわからないだろう。

 

 真相は、闇の中だ。