男が旅をしているのは、平生の暮らしに堪えかねたからである。
男は街で生活をしている。街で金を稼ぎ街にある家に帰る。飯を食うのも衣服を新調するのも街のなかでのことである。男の生活は街のなかで完結していた。
しかし男は街に辟易している。空は狭く空気は汚い。忙しなく走る自動車の群れは歩行者である自分まで急かされているようだ。そして何よりも嫌気がさすのは、誰も彼もが粧(めか)したて、そのうえから顔を隠していることだ。
身なりを飾ることは否定しない。男も働く身として相応の恰好をしている。けれども必要以上に粧し込んだその顔はもはや別人のそれであり、さらに口元や目元を覆い隠した姿はまさしく異様である。この街の人間には顔がないと言っても過言ではないだろう。そんな人々が闊歩する街が、男にはおぞましくて堪らないのである。あそこでは表情というものがまるで意味をなさない。塗りたくって描き変えてさらに隠されたそれは、素顔もへったくれもない。やがてあの街の人間は本当に顔面が退化するのではないか。そんなくだらないことまで危惧するほどであった。
男は好んでよく旅に出た。行き先はいつも山や森である。風の音を聴き樹木の薫りを味わうのは男にとってなによりの癒しであった。宿は必ず人里離れたところに構えるものを利用する。寂れたものだとなお良い。繁盛している宿屋は、泊まる客から街を感じる。あるいは山村に寝床を借りることもある。集落のような居住区であれば、そこに暮らす人からは街の匂いがしない。ゴテゴテと塗りたくった嘘っぱちの顔でなく、素朴であたたかい、人という生き物の本来持ちうる表情に触れられるのだ。そういった旅を男は余暇のたびに繰り返した。
あるとき男が足を運んだ山で、大雨が降った。水滴が簾のように視界を遮り、来た道を戻ることも憚られる。男はわずかに整備された獣道を歩いてきた。デコボコと不細工だが、人の踏みしめてきた土台を感じる。ならばその先はどこかの村へ繋がっているはずだ。男はぬかるむ道を辿り、近くの村を探すことにした。
ようやっと雨足が弱まった頃、男はひらけた場所に着いた。そこには藁葺きの住居が、櫓のようなものを囲うように点在しており、小さな村が形成されている。
櫓を見上げるように、人影が立っている。水溜まりで跳ねる飛沫が傘の隙間から長い髪を濡らしている。顔は見えないがここに住む女性だろうか。男は声をかけた。
「あのう、ごめんください」
人影が傘の下からこちらを向く。男はそれを見て、目を丸くした。女の顔には一枚の札が貼り付けてある。朱や青で描かれた花のような紋様の、中心と目が合う。泥に塗れた男の姿から様子を察したのか、女は駆け寄ってきた。ぱしゃぱしゃと音をたてて散る泥を気にするそぶりはない。
「どうされたのですか、こんなところで。ひどいお姿ではありませんか」
「旅の途中で雨に降られまして。傘もないのです。あつかましい頼みですが、どうか一晩、泊めてはいただけませんか。金なら、ほんの雀の涙ほどですが、あるだけ払います」
「ええ、ええ。構いませんとも。そんなに濡れてしまわれて、風邪でもひいては大変ですから。お金も結構です。大事にしまっておいてくださいな」
女はすぐさま踵を返し、藁葺きの家の方へ向かった。男は頭を下げ、それについていった。
男は横から女の顔を何度か盗み見ようとした。女は札のせいで表情がわからない。額の真ん中あたりから、耳もとまでぴったりと覆う札は、街の人間を思い出させる。しかし女のやわらかな声は、街に住む者のそれとは違い、心のこもったそれに聞こえた。やはりこんなことは失礼だと思い返し、男はまっすぐ前を向いた。
「どうぞ、狭い家ですが」
かるく会釈をして招く女がにっこりと微笑んだかはわからないが、どことなく好意的な印象であった。男は恐縮しながら家にあがる。湿気た土くれの匂いにまじって、米の香りがする。
「ただいま」と女。
「お邪魔いたします」と男。
不思議そうに首をかしげる大柄な男と子ども。女の旦那と息子であるという。二人は女の説明を受け、快く迎え入れてくれた。しかし男は居間に一歩踏み入ったところで硬直した。
旦那も子どももまた、女と同じように顔面を札で覆っている。ぱちぱちと弾けて揺れる囲炉裏の炎に照らされ橙に染まった紙には、蛇のような黒い線がうねり走っている。札を左手ですこしよけ、その隙間から箸で米を運ぶ。咀嚼しているらしいのか、かさかさと札が擦れる。
「どうぞ」
女が座布団を敷く。ここでは自分の方が不自然なのか、男はおずおずと腰をおろす。女は自然な振る舞いで茶碗に米をよそい、男に差し出す。見たところ特に変わった様子はない。むしろ街で売られている出来合いのものよりずっと香ばしい。訝しむ心を邪魔するように腹の虫が鳴く。まさか毒などないだろう。男は米に手をつけた。良い味だった。
味噌汁をすすりながら家族は団欒する。子どもが冗談を言うと、両親が笑う。何の変哲もない風景だ。いままで泊まった村のものとなんら変わりないあたたかな家族だ。人という生き物の理想の姿とも言えよう。疎外感を抱いた男に話しかけたのは旦那のほうだった。
「ところで旅のお方、随分と面妖な顔立ちをしてらっしゃる。どこからおいでかね」
「こらあなた、失礼ですわよお客様に」
「いいえ、構いませんよ。端正なほうではありませんので」
「いやあ、そんなつもりで言ったんではなかった。すまなんだ。ただどこからなのかちょいと気になったもんでしてな」
「街からです」
「へえ驚いた、街からとな。またなんでこんなところに」
「まあすこし、気分転換です。道に迷ってしまいましたが……」
「そりゃ大変だ。街のことはよく知らんが、色々あったんでしょうな。酒でもどうですかね」
「下戸なので」
「そりゃすまなんだ」
旦那は徳利の酒を杯に注ぎ、それをひと息に飲み干した。女が「ほどほどになさいよ」と嗜める。これもいつもの風景なのだろう。まるで男だけが別の世界から迷いこんだようだった。虚飾の気配はまるでないのに、顔だけが忌まわしいもののように封じられているのだ。とうとう辛抱もならなくなり、男は尋ねた。
「あのう、どうしてお札を貼っているのですか」
「村に伝わる風習ですの。みんなしてますのよ。私の祖父も、していましたの。化粧のようなものですわ」
女はこたえる。
「化粧はしないのですか」
「風習ですのよ。これを貼っておけば粧す必要もありませんの」
「ほかの家の方も、同じなのですか」
「ええ、風習ですの。皆同じようにしてますわ。紋様は好みのものを自分で描いてますの」
「しじゅう、つけているのですか」
「風習ですの。寝るときは外してますわ」
「お顔を見せてはいただけませんか」
「まあ。見せるほどのものではありませんわ」
「そこをどうか」
「まあ。見てもなにもありませんわ」
こうも頑なであると男は引き下がるしかない。宿を借り飯を頂いている身だということを弁えなくてはならない。男と一家は食事を終え、順番に風呂に入るとそのまま床に就いた。寝顔を覗こうかという邪念もよぎったが、頭からつま先まで布団をかぶっているのでやめた。
一夜明けても雨は続いた。男は、帰るのは危ないと女に諭され、もう一晩泊まっていくことにした。次の朝も雨音で目を覚ました。こうも居座っては申し訳がないと男は村を出る支度をしたが、せめて前が見えるほどに弱まってからにしなさいと女に引きとめられた。男はせめてもの詫びだと持ち金を払おうとしたが、女が受け取ることはなかった。
男はこの家の生活に慣れつつあった。と言っても特別なことが起きるでもなく、ただこの家の者の顔が見えないだけのことだった。どうせ街の人間も似たようなものだ。洒落ていると思っているのか知らないが、ほとんど仮面と変わらないじゃないか。あたたかくやさしいここの家族の方が、よっぽど心休まるではないか。雨が酷くほかの村人に会うこともなかったが、それもかえって良かったかもしれない。
ある朝男は日が昇る前に目を覚ました。雨はあがっているようで、仄暗い空を朝露の滴る草葉が縁どっていた。布団をたたんでいると、女がもう起きて身支度をしているのが見えた。札はしていない。髪を結う無防備な姿は、男の邪念をまた思い起こさせた。男は音を立てないよう、顔を盗み見た。
女の素顔に男は目を剥いた。髪の生え際からあごの先まで、皮膚がつるりと平坦になっているのだ。双眸は縁日の面のように、小さな穴から瞳が覗いているだけである。睫毛はない。鼻は削がれたように平たく、鼻腔が正面を向いている。唇らしい膨らみもなく、肛門のようにすぼんでいる。橙の炎にあてられても、艶やかなばかりで影は浮いていない。
「まあ、お早いのですね。よく眠れましたか」
すぼまった口をひくひくと動かし女は言う。女らしい柔く細い声は、狭い穴を隙間風のように抜けて届く。微笑むように小首をかしげるが、暗い眼窩はまるいままぴくりともしない。
男はきっと夢を見ているのだと、自分の顔を指先でなぞった。ころころとした眼球があり、飾るように睫毛が生えている。坂のようにすっと伸びた鼻筋と、そのしたには唇があり、真一文字に谷間をなしている。
旦那のほうと子供も布団から身を起こしたが、眠そうにこすっているのはぽっかりと空いた穴だった。男はいよいよ恐ろしくてたまらなくなり、悲鳴をあげて家を飛び出した。荷物もなにも持たず、裸足で泥を踏みしめた。しかし泥濘)が弄ぶように足を奪う。男は震えの止まらぬ身体を起こそうとするが、うまく言うことをきかない。
女は足元に気をつけながらこちらに向かってくる。旦那と子どももそれに続いた。悲鳴を聞きつけたのか、ほかの家の者もどうしたなにごとかとこぞって出てきた。男は冷や汗とも涙ともつかぬものを流し、小便を漏らしていることにも気がつかないでいた。村人は皆一様に、顔がないのだ。真っ黒い穴をふたつずつこちらに向けてぞろぞろと迫ってくる。
どうしました。だいじょうぶですか。どこかわるいのですか。口々に男を思いやる言葉を吐く村人に、表情などありはしない。
男は助けを求めるように、脳裏に街での日常を見た。
そこには人の顔などなかった。
了