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現在地から静岡県は新浜松駅まで高速を通りおよそ十時間。窓という窓に手形のついたこのボロ車で向かうのは到底不可能である。手垢ではない。手形だ。いくらワイパーを振ったとて一向に落ちる気配がない。マリオカートであればキノコか何かで加速すると窓の汚れは剥がれ落ちるものだが、どっこい私が座しているのはリアルカートである。道中キノコを見つけたとて轢き潰すのが関の山。というかそもそも視界不良で運転ができないと言っておろう。ところが助手席に行儀よく座るこの女はそこへ連れていけといって聞かない。厳密には、そこから繋がっているという、如月駅へ。
そも、このような事態に陥ったのは何故か。私に一切の非がないことを前提として、概ね後部座席で毛布にくるまり眠りこけている賀茂村という男のせいである。
「心霊スポットでも行きやしょう」
先日、講義後マックことマクドナルドに寄るくらいのノリで賀茂村は提案した。朝食という文化の廃れている私の腹は昼頃になると毎度背中と癒着する恐れがあるほどペコペコとなり、亡者の慟哭か怨念の絶叫あるいはそれに比肩するほどけたたましく腹の虫が鳴く。鳴くというか嘶く。ちょうどダブルチーズバーガーのクーポンが出ていたため私は安易に了承した。
はたしてなんの間違いか私と賀茂村はその日の講義後ダブルチーズバーガーには目もくれず速やかに帰路についていた。
「おい話が違うぞ賀茂村。お前はダブルチーズバーガーをおごってくれると言っていたではないか」
「一言も言ってませんよそんなこと。耳にチーズでも詰まってるんじゃないですか、ピザみたく」
「ピザの耳にチーズを混入する輩は愚か者だし、俺は腹が空いている。空腹に喘ぐ善良な市民をかどわかすなど貴様どういう了見だ。訳を言え。返答次第ではダブルチーズバーガーを要求するぞ」
「そんなに食べたきゃ一人で行けばいいじゃないですか。その、なんでしたっけ。チーズバーガーを二段重ねた、元気なやつ」
「貴様俺を騙した挙句ダブルチーズバーガーを愚弄するつもりか。ダブルチーズバーガーは美味の頂点だぞ。それに唾を吐くとは貴様覚悟はいいのだな」
「なにを熱くなってるんですか。知ってます? ダブルチーズバーガー一つ買うよりチーズバーガー二つ買ったほうが安いんですよ。」
「戦争だ」
「はいはい。では明日の朝、下宿に伺います」
「いいだろう、遺書を書いておくんだな」
賀茂村の去ったのち私は財布と相談したが、野口英世に頭を冷やせとたしなめられたので仕方なく直帰した。今宵の夕食も具なし茶漬けになりそうだ。晩になると賀茂村から旧犬鳴トンネルなる心霊スポットについてまとめたサイトが送られてきた。
ここまでの話ではろくに話も聞かず返事をした私に非があるという意見も出よう。そんなことは私も重々承知である。しかし詳しい説明をせずに、それもマックことマクドナルドと勘違いしてしまうような紛らわしいモノの言い方をした賀茂村にも責任の一端があるのではないか。というか空腹で朦朧としていた意識に付け込んで危険な場所への誘因を目論んでいる時点で、一端もなにも端から端まで賀茂村が悪い。よって意見は却下。私は被害者である。
犬鳴峠。旧称、久原越。福岡県宮若市と同県糟屋郡久山町との境をまたいで存在する峠であり、その峠を貫通しているのが、心霊スポットとして有名な旧犬鳴トンネルである。概要は私も賀茂村から送られたサイトに記される限りしか知らない。この手の心霊スポットのご多分に漏れず、トンネル内では幽霊が出たり、事故を起こして死んだりするらしい。しかしその程度の曰く付き観光名所であれば私は平気でドタキャンしてマックことマクドナルドでダブルチーズバーガーを頬張るし、まず賀茂村が興味を抱くとは思えない。どこの心霊スポットでも幽霊は出るし、どこのトンネルでも残念なことに事故は起きる。そして人間、死ぬときは死ぬのだ。
余談だが変態好事家の名をほしいままにしている賀茂村の趣味趣向を理解することは末代までお笑い種にされるであろう不名誉である。かつて彼は猫耳メイドなる珍妙な職種について滔滔と語ったのち、猫耳メイドカフェではなく猫カフェに足を運んだ。彼は猫も猫耳もメイドも好きな生粋の業突く張りだが、猫好きが高じて猫耳趣向になったのではない。むしろ熱を上げているのは猫耳の方であり、猫耳を生やしているから猫を愛でているというのが彼の供述だ。猫耳メイドもこれ同様。留年スレスレ低空飛行を可能とするスーパーコンピューター顔負けの卓越した私の脳も、このときばかりはニューロンというニューロンが一斉に思考を放棄したのを覚えている。これ以上彼を理解するということは、魂に彼が侵入することを良しとする行為であり、偉大なる我が魂および先祖代々受け継いできた誇り高き我が苗字が賀茂村に堕ちることを意味する。いくら猫という猫に懐かれる彼の魂がうらやましいからと言って、躾の行き届いたカフェ猫が本能のままに牙と敵意を剥き出しにする私の魂が恨めしいからと言って、彼の魂など受け入れてはならない。
閑話休題、どうやら旧犬鳴トンネルはその昔殺人事件があったとか、地図上に存在しない村に繋がっているとか、奇怪な立て看板があるだとか、曰くという曰くが盛りに盛られているようだ。その特盛怪異トンネルに賀茂村が目を付けたばっかりに、同伴などという貧乏くじを引かされたのが私である。否、私はおみくじなど引かなければ正月も詣でぬ無神論者であるが、貧乏くじが勝手についてきた。やはり神などいない。
来る土曜朝つまり本日午前十時ごろ、賀茂村は私の家の前にやってきた。律儀にもインターホンで呼び出しては「ここまで迎えに来てやったんだからトンネルまで運転頼んますよ」などとほざいている。なにが来てやっただ勝手に来たくせに。とはいえ私は良心の権化であるためこの極悪非道の押し売り野郎の頼みを呑んでやることにした。それにこのまま家の前に居座られても困る。断じて心霊スポットに興味が湧いちゃったとかではない。彼が押しつけがましく送ってきたサイトはすべて目を通したが、それはあくまで日課の読書の代わりであった。重ねて言うが断じてちょっとワクワクしたりしていない。断じて。
こうして遠路はるばる、六時間と五十余分かけてやってきたのが旧犬鳴トンネルである。なるほど確かにトンネルの周囲は鬱蒼とした木々で囲まれており、右読みの看板が打ち捨てられたように突き立てられている。車外に出て深呼吸をしてみたが、森林は空気がうまいなど眉唾物であった。なぜか赤青黄色にカラーリングされた入り口は決して鮮やかで華やかなはずもなく、まさしく呪いと悪霊の巣窟といった得も言われぬ趣があった。周囲には粉砕されたブロック塀の破片と思しき物体が散乱しており、それらもまた色とりどりに着色されている。おそらくヤンキーと呼ばれる勇敢な蛮族が参上した際に、記念に塗って帰ったのだろう。彼らは全国各地の手ごろなコンクリート壁にスプレー缶で『参上』と印して回るお遍路を生業としているらしい。私の母校にもそんな輩が在籍していたものだ。
そんなイロモノ共の夢の跡。本来封鎖されていたであろうトンネルは先人たちによって壁が粉砕され、ちょうど乗用車が侵入するのに好都合と見える。私の名誉のために弁明するが、私はビビッてなどいなかった。ただ長時間の運転の疲れが出ていたので、具体的には手足の震えや発汗、呼吸の乱れが顕著に見られたため、賀茂村に運転を替わろうとした。しかしここで私の希少な運が尽きる。賀茂村は毛布にくるまりぐっすり眠っているのである。
とはいえこの段階では途方に暮れたというほどではなかった。即刻回れ右をして温かな我が下宿を目指せばいいだけである。なんなら賀茂村は置いて帰ってもよい。なんだ簡単じゃないか。私はかび臭い空気を全て吐き出してから、運転席に座りなおした。当然、窓も閉めた。道が狭いので途中までバック運転になるが、来た道をまっすぐ辿ればいい。心霊スポットはあくまでトンネル内部である。侵入しなければ呪われることもあるまい。私はバックミラーと目視の二段構えで後方の安全を確認したのち、ゆっくり大きく深呼吸をして、勢いよくトンネル内へアクセルを踏んだ。車の背後に佇む、髪の長い女から逃れるために。
必死だった。無我夢中だった。前に進むなら何でもよかった。看板にあった『きけん コノ先 日本国憲法 通用セズ』という赤文字が好都合にさえ思えた。灯りのない暗闇の中、法定速度など優に超えていた。
前照灯はハイビームだというのに先が見えない。まるで墨の中をやみくもに進んでいるような気分だ。なにもぶつかってこないのが奇跡だというほどに。そんなささやかな安堵を探り当ててしまったこのタイミングを見計らったようだった。闇の中に、真っ白なシルエットが浮かび上がったのは。先刻の女が現れたのは。否、彼女が現れたのではない。私たちが辿り着いたのだ。誘い込まれたのだ。彼女は、待っていたのだ。私たちをトンネルに追いやり、方法は見当もつかないが、とにかく先回りして、私たちが急ブレーキも間に合わない速度で突っ込んでくるのを、ただ待っていたのだ。待ち望んでいたのだ。待ち焦がれていたのだ。激突の瞬間、彼女と目が合った。笑っていた。長い黒髪の隙間から、終わりのない暗闇のような眼窩を覗かせて。眉月のように唇で弧を描き。運命の王子様と巡り逢えた少女のように。喜色満面で佇む彼女を、私は、勢いよく、撥ねた。
エンジンストップをありがたいと思ったのは人生で初めてである。急ブレーキは間に合わなかったものの、車体の損傷は存外に軽かった。エアバッグが作動しなかったのはボロ車のせいとして、しかし私がこうして生きていることはやはり奇跡といえよう。賀茂村もどうやら無事なようだ。私が咄嗟に賀茂村の名を呼ぶと、返事とも寝言ともつかぬうめき声をあげた。彼は荷物のように座席の下に落ちていたが、毛布を身にまとったまま再び座席に這い上がろうとしている。やがて元の位置に落ち着くと、なにか言ってまた眠りについた。たぶんおやすみと言っていた。
女はどうなった。人一人撥ね、異様なまでに無事である。いや、私がぶつかったのは質量を持たないなにか、いわゆるところの幽霊の類であろう。人を撥ねたような衝撃こそあれ、人と衝突したとは言えないのかもしれない。それでも私は彼女の安否が気になった。彼女が人ならざる何かであることは火を見るより明らかだが、それでも人の形をした何かを撥ね飛ばしたのだ。車内でおとなしく座っていろというほうが酷な話である。
私は後方確認もせず運転席から飛び出した。ハザードランプも点けていないが、いまそんな余裕はない。こんな灯り一つないトンネルで一体誰が通りがかるというのだ。助けを呼んだって来やしないだろう。
前照灯が息絶え絶えなのは衝突でイカレたのかはたまた元からこうであったか。しかし夜道を運転できないほどではなかったはずだ。足元を照らすくらいわけない。わけない。わけないはずなんだ。例えば誰かが倒れていたら、そんなの見落とすはずがない。私は確かに女を撥ねた。だから車はエンストしたし、だから私は飛び出した。しかしひしゃげた車の前には、潰れたペットボトルしか落ちていなかった。
あたりを見渡す。ゆっくりと。今しがた撥ねた女を、見つけたいのか、見つけたくないのか。しかし暗闇にぽっかりとあいた光の穴には、立ち尽くす私の他には不法投棄されたゴミしか見えない。煤けた壁面にはやはり落書き。意味不明な文字列が凝った意匠で描かれている。きっとそもそも意味はないのだろう。意味ありげな言葉でも書き記されているほうがかえって不気味である。
なにもないことを確認し、車内に戻る。幾重にも敷き詰められた暗闇のためなにも確認できなかっただけかもしれないが、それでも私の目の届く範囲には、進行方向にも、後方にも、車内にもなにも異変はなかった。ドアを閉め、即座にロックする。バックミラーにも人影はない。
いますぐ逃げ出すべきだろうが、とても発進できる状態ではかった。密閉空間特有のよどんだ空気が心地よく感じる。外の瘴気にさらされていると、気が触れてしまいそうだ。私は後部座席の賀茂村に目をやる。依然として毛布にくるまり眠っている。呑気なものだ。呆れるような、ホッとしたような。私もつられて目をつむる。口から漏れるのはた溜息ではなく安堵の息であった。
フロントガラスに向き直り、ハンドルを握る。暗闇がべったりと窓に張りついているため、ライトをつけなおした。眼前は幕でも下りているように明るくならない。そういえばエンストしていたのだった。チェンジレバーをニュートラルに設定、ブレーキとクラッチペダルを踏んだまま、キーを時計回りにひねる。教習通りのエンジン始動だ。前照灯を水平に向ける。対向車でもいればすれ違いざまに睨まれるほどの光量である。一〇〇メートル先を照らせなければ保安基準に満たないとされているらしい。しかし前方には依然として、おびただしい数の蛾が群れを成して張りついたような、いびつな闇が広がっており、光はその隙間から漏れて見える程度であった。
私はクラクションを鳴らし、ワイパーをかける。夜光虫の類であればたまらず逃げ惑うはずだ。けれど視界が晴れることはなかった。それもそうだ。当然のことだ。人間の手形が、羽ばたくはずもないのだから。
見えなければ、見なければ、そこには何もないのと同じである。しかし見えないままでは、あるべき真実に辿り着けないまま永劫怯え続けることとなろう。私は眼前のおびただしい手から目を離さないでいた。離せないでいた。震える指でワイパーを切った。もしこの手を払ってしまえば、そこに女がいる気がして。
いますぐ発進すべきだろうか。逃げ切れるものだろうか。ただでさえ灯りのないトンネルの中で、視界を奪われたこのボロ車で、どこにいるやもわからないなにかから、いったいどこへ行けば逃げられるのだろう。
「如月駅に連れていってください」
声が聞こえる。私の声ではない。賀茂村のものでもない。咄嗟に振り返ろうとするも、恐怖が私の頭を掴んで離さない。なにも見てはいけない。なにも見るな。本能がそう言っている。しかし声は確かに聞こえる。か細く、弱々しく、消え入りそうな、しかしそれでも、決して逃がさないという意思を孕んでいた。あれだけ探した女が、どこへ消えたかいま理解した。同時に私はそれを否定した。どうか、思い過ごしであってくれ。これは私の勘違いだ。なにもない。なにもないのだ。なにもないことが見えてしまえば、ただそれでいいのだ。私はゆっくりと、ゆっくりと、答え合わせのように、首を左へ回す。
「如月駅に連れていってください」
女が座っていた。まるで最初からそこにいたように。
だいぶ前置きが長くなってしまった。はやい話が、私は呪われたわけである。
2
トンネルにまつわる都市伝説や心霊現象の話など枚挙に暇がないだろう。バックミラーになにかが映りこむ、窓や車体が手形まみれになる、どこからともなく女の声が聴こえる、知らない誰かが車内に乗り込んでいる、などはやはり定番である。怪談として語り継がれるということはもちろん生還者がいるわけだが、中には助からなかった例もあったという。突如車の制御が利かなくなって事故死したり、予兆なく意識を失いそのまま死に至ったり。またトンネルからは逃げ帰れても後日不審死を遂げる場合もある。いずれにせよトンネル内で怪奇現象に遭遇したことが原因とみられ、これが俗に言う「呪われた」というやつらしい。私もいま、まさしくそういった状況である。
「如月駅へ連れていってください」
目を離した隙に助手席へ侵入したこの女は、念仏のごとくそう繰り返す。平然と、淡々と。私は確かにこの女を轢いた。だから車はエンストした。しかし女はそんなことは意に介さぬ様子である。腰まであろう黒髪は生々しく艶めき、怨霊というにはあまりにも似つかわしくない純白のワンピースには、血痕はおろか埃ひとつ付いていない。女はゆっくりと、こちらに顔を向けた。
「如月駅へ連れていってください」
ぽっかりと空いた洞穴のような眼窩はいつの間にか埋まっており、色素の薄い瞳がそろって私を捉えている。その視線に縫い付けられたように、私は動くことができなかった。女はまたひとつ、呪いの言葉を吐く。女の声は、所作は、生きた人間のそれのようだ。
観念せざるを得ないようだ。私はこの女に従うしかない。なにせこの女はドアをすり抜けて乗り込んだうえ、ご丁寧にシートベルトまで締めていやがるのだから。
「如月駅へ、あの、聞いてます?」
聞いてる。というか聞こえている。多分耳を塞いでも聞こえてくるであろう。なんだか不躾な物言いが。怪談や都市伝説の類は小学生時代に流行ったモノか八月のホラー特番、あとはこの犬鳴トンネルについてざっと目を通したくらいしか知見がないが、幽霊がこんなにフランクだとは知らなんだ。たいていは壊れたレコーダーのようにひたすら淡々と言葉を吐き続ける。あるいはロールプレイングゲームの村人Aのように、こちらが話しかけることで会話が成立するパターン。それも指定の回答を促してくる形式で、ほとんど誘導尋問に近い。だから恐怖を抱くというのに。
「如月駅へ連れていってくださいって」
微妙に文言が変わった。こういうのは同じ台詞を狂ったように繰り返すから不気味なのに。定石を踏んではくれまいか。いや、生前と変わらぬ姿でいることもあるのだろうが。それでもこう、幽霊として自覚のある振る舞いをしてくれねば、こちらも反応に困るのだ。背筋を伸ばし、シートベルトを締め、膝の上にちょこんと手を重ねて待機されても、こちとら幽霊のマナーなど気にならんのだ。真面目にやれ。
「あたしまだ仮免なんですよ。AT限定の」
知らんがな。なんでMT車で来た私に非があるみたいな言い方なんだ。生前MT車で免許を取ろうとしなかった貴様が悪いのではないか。確かに面倒ではあるが。私も半クラッチには慣れるまで苦労したが。いまどきホームセンターの貸出軽トラックですらATだとも言われているが。こういう時のために免許はMTで取っておくべきだと、亡き祖父の遺言にもあった。
肩の力が抜ける。私はハンドルを離し、背もたれに身体を委ねた。じっとりとまとわりつく汗のせいで後頭部が痒い。下宿を出てから食事をとっていないから腹も減った。ダブルチーズバーガーが猛烈に食べたい。そういえばドイツ語の課題提出が明日締切だ。ちゃんと帰れるのだろうか。訝し気な面持ちで女がこちらをじっと見てくる。綺麗なへの字口だ。それはもう見事なへの字口で、向かって右の口角は下がり方が急である。心持ちゆるやかな曲線を描いているため、これはひらがなのへであろう。とても血色がいい。
「うわ、溜息ついた。うっざ。なんなんですか」
奇遇である。私もうっざなんなんですかと言おうとしたところだ。もしかすると気が合うのかもしれない。私は気の合う友人が少ない。そもそも友人が少ない。賀茂村しかいない。気が合うと嬉しいので話しかけてみる。実際には気が触れているだけかもしれない。
「あの」
「あ、ひょっとしてびっくりさせたの根に持ってます?」
「あの」
「ごめんなさいね。あたし怖い話好きだから、凝っちゃって」
「あの」
「でも、ああでもしないとあなた帰ってたじゃないですか」
「あの!」
「あ、はい」
「アンタ、いったいなんなんですか」
「なにって言われても……うーん、地縛霊になるんですかね」
「ジバクレイ?」
「地縛霊です。あ、爆発したんじゃなくて、その場に縛られてる、って意味です。トンネルからあんまり出れないし。だから何とかして、如月駅に行きたいんですよね。あ、連れてってくれます?」
先刻より随分と一方的に話を進める女だ。生まれ育った郷里を去り我が身一つで薔薇色のキャンパスライフを謳歌しようと目論むも入学初日で挫け恋人はおろか友人もできず賀茂村または各種店員しかコミュニケーションをとる相手がいない私には、見ず知らずの女幽霊と円滑な会話をしろなど無慈悲な試練である。
「さっきから、その、如月駅ってなんなんですか」
「如月駅は如月駅です。知らないんですか」
いつぞや流行った都市伝説である、ということまでは把握している。しかし具体的にどういった話で、何たる駅なのかは詳しくない。賀茂村ならその道も明るかったかもしれんが、あいにく彼奴が起きる気配はない。面倒ゆえ起きなくともよい。
「えっとですね。簡単に言うと異世界へ繋がっているんですよ」
彼女はポケットからスマートフォンを取り出す。持つなそんな便利な機械を。確かに生前着ていた服まで再現されるなら、その他所持品まで完備されていてもおかしくはないかもしれんが、死してなお文明の利器に頼るんじゃない。
「ネット繋がらないですね」
だろうな。廃トンネルだからな。しかも心霊スポットである。かくいう私のスマートフォンもトンネル侵入以前からスマートとは名ばかりの光る板にすぎない。いわんや十数年前のモデルなど、光る骨董品と称して差し支えなかろう。というかスマートフォンを持っているということは、亡くなったのわりかし最近じゃないか。
「まあいいや。えっと、如月駅と言うのはですね」
彼女はこちらへ向き直り、いかにも怖い話をしますといった面持ちで語りはじめた。
如月駅。かつてそこへ迷い込んだ女性が、消息不明になったという。当時、その女性はオカルト系の匿名掲示板へ状況を投稿し、解決策を求めた。はじめは線路沿いに歩き帰路を目指していたのだが、しかしある時点で女性の投稿が途絶える。以降、女性の行方は誰も知らない。駅の周囲は見渡す限り人里はなく、時刻表も前後の駅の表示もなし。なぜそこへ迷いこんだのかも不明。わかっていることはほんのわずか。女性は静岡県の新浜松駅発の電車に乗ったこと。そこは無人駅であること。線路は伊佐貫というトンネルに繋がっていること。そして、如月駅という名前の駅など、この世に存在しないこと。
以来、インターネット世代の新たな都市伝説として、「辿り着いてはいけない駅」として語り継がれているようだ。
「嫌です」
「なんでですか!」
「存在しない駅にどうやって行くんです」
「行けた人いるんで、こう、頑張れば」
「行けたんじゃなくて迷いこんでるんでしょうが。それにどうやって帰るんです」
「あ、あたし帰る気ないんで大丈夫ですよ」
「アンタが大丈夫でも私は帰らんといかんでしょうが!」
「あ、そっか」
「しかも話しながら、コツコツ窓叩いてたでしょう。雰囲気出しやがって、悪趣味な女め」
「そんなことしました?」
「ともかく、お断りです。ほかの人を呪ってください」
「待ってください。話にはまだ続きがあるんです」
あのですね、と女は両掌をこちらに向ける。聞け、と言いたげだ。コツコツと窓を叩く音がする。
「如月駅にあるエレベーターから、異世界に行けるんです」
はて何を言っているのかチンプンカンプンであったが、ここへきて、私でも知っている都市伝説が追加された。エレベーターのボタンを特定の順序で押せば、存在しない階へ辿り着くというものだ。細部に地域差のある話ではあるが、私の住んでいた校区ではエレベーターであればどの施設のものでもよく、十階以上を必要とした。小学生時分に友人と戯れに試してみたが、そもそもボタンの数が足りず、さらに手順も失念したため適当にポチポチした結果、ドアの向こうは婦人服売り場であった。
「あたしは、それが試したいんです」
「ふむ、ちょっと待ってください」
私は脳内コンピューターをフル稼働させ、彼女の話を整理する。確かにいま、如月駅の話を聞いていたはずである。存在しないうえ、行ったら最後二度と帰れぬと評判の奇怪な駅へ連れていけという無理難題を押しつけられていたところだ。つまり過日の賀茂村よろしく心霊スポットへ、もっとも今回は存在しないため目的地に到着してはいけないのだが、ともかくドライブのお誘いである。そこへ突如聞きなじみのある懐かしい都市伝説が混入されるとはこれいかに。たしかに存在しない駅へ遭難するのは怖いし、エレベーターが異世界に繋がるのもこれまた二度と戻れなくなりそうで恐ろしかろう。しかし怖い話に怖い話を足したらもっと怖いなどとは、ドリンクバーで片っ端からドリンクを混ぜる阿呆どもと同等の発想である。うどんにカレーをぶちこんではたして美味いかという話だ。美味いか。美味いな。兎角B級映画のごとく安易なコラボレーションを強いられた怪談に、私は困惑を隠せないでいた。ひょっとしてすでに異世界へ迷いこんでいるのだろうか。
「如月駅で、エレベーターに乗るんですか」
「如月駅で、エレベーターに乗るんですよ」
「存在しない駅から、さらに異世界へ飛ぶんですか」
「そういうことになりますね」
「そも、如月駅にエレベーターなんぞあるんですか」
「あるんじゃないでしょうか」
どっちかにしてくれ。確かにどちらも「辿り着いちゃったら怖いよねー」といった趣旨の内容ではあるのだが、せめてどっちかにしてくれ。そんなにあちこち迷いこんだら一周回って帰れちゃいそうではないか。しかし女は頑としてそこへ行きたいのだと言って聞かない。如月駅へ向かい、エレベーターに乗り、さらなる異世界を目指そうと言うのだ。この異世界の求道者はきっと私が根負けするまで引き下がらないだろう。路上で寝ころび駄々をこねるやもしれん。怨霊に取り憑かれた者は皆死ぬか言いなりになるか究極の選択を迫られるばかりと思っていたが、よもやゴリ押しされるとは。これはこれでまた恐ろしや。コツコツと窓を叩く音が気になる。
「まぁ、話は分かりました。つまるところ、新浜松駅まで送ればいいんですね」
「え、如月駅……」
「無理です。なんとかなるのは新浜松駅までです」
「でもあたし幽霊なんで切符買えないんですけど」
「アンタ私の車に勝手に乗ってきたでしょうが。どうとでもなるでしょう」
「あ、そっか」
厳密には賀茂村の車である。こんなボロ車が私のマイカーだと思われてはかなわん。
「それと、ひとつ条件があります」
「え、なんですか。痛くしないでください」
「道中マクドナルドがあれば、そっちが優先です。ダブルチーズバーガーを食べないと気が済みません」
何を想像されたのか。私はそんなに悪人に見えるか。女性を死してなお痛めつける極悪非道の輩だとでもいうのか。むしろ私は生来の善人でありノーベル平和賞の候補ともいえるお人よしであるはずだ。賀茂村と違ってな。いまも空腹のあまり先走った胃酸に食道を焼かれる痛みに耐え、行きずり幽霊のヒッチハイクに付き合っているのだ。マックことマクドナルドに寄り道する権利くらいあろう。
「ダブルチーズバーガー……ですか」
「なにか」
「いや、いたんですね。チーズバーガーを二つ重ねただけの頭悪いあれ食べる人。チーズバーガー二個の方が安いのに」
なんだ貴様。美味という概念そのものともいえるダブルチーズバーガーを虚仮にした挙句、ちくしょう、あろうことか賀茂村と同じことを言いやがって。だったら貴様はなにが好物だ、言ってみろ。ダブルチーズバーガーよりも美味いものを挙げられるのか。執拗に窓をノックする音がたまらなく鬱陶しい。私はなんだか無性に腹が立ってきた。
「やっぱなしで。降りてもらいましょうか」
「そんな、困ります」
「そもそも、どうやって静岡まで行けと言うんです。見ろ、アンタのせいで窓が手形まみれではないか。マリオカートとはわけが違うんだぞ」
「いや、それはあたしのせいじゃないんだけど」
「すぐバレる嘘はやめろ見苦しい。ゴーストたるアンタの仕業でなきゃ、誰がこんなことをするのだ。あとさっきから窓を叩くのを止めろ。気が散る」
「だから、あたしじゃないって」
ほら、と、女は窓の手形に細指を重ねる。一回り小ぶりな白い手はまさしく女性のそれである。スマートフォンを片手で操作するのは骨が折れるだろう。背後から、窓を叩く音がする。
「……確認しますけど、アンタ幽霊ですよね」
「あ、はい。幽霊です」
「少々手荒な真似をしても、死んだりしませんね」
「えっえっ、なにする気ですかダメですあたし人妻」
「念のため、舌噛まないでくださいよ!」
なにかとてつもなく蠱惑的な響きが耳に触れたが、後回しだ。私は渾身の力でアクセルを踏む。一速、二速、じれったいので一足飛びに四速へギアを入れる。依然視界はべったりとこびりついた手形に遮られているが、ワイパーすらつけなかった。どうせ暗闇でなにも見えやしないのだ。マリオカートで敵の妨害を受けた状態だと考えれば幾分マシであろう。なにせ私は従弟妹から「レインボーロードの狼」と畏怖されし男である。先の見えないトンネルを爆走するくらいわけない。もっとも、車の外にいるであろう得体の知れないなにかが邪魔してこなければ、だが。
「ちょっと! こんなに飛ばして大丈夫なんですか?!」
「こんなに飛ばして撥ねたアンタが無傷なら、まあ大丈夫でしょう!」
「後ろで寝てるおともだちは?!」
「この期に及んで寝ているようならあんなものお友達ではない! ただの疫病神です!」
などと談笑している状況でないのは自明の理である。時速一〇〇キロで走行しているのは、舗装されず荒廃した道だ。車体の揺れは激しさを極め、もはや運転しているのか吹っ飛んでいるのかもわからない。舌を噛む程度で済めば軽傷だろう。心霊現象など関係なく、いつ死んでもおかしくない状況である。
しかし黙ってただ運転するわけにもいかない。女がすでに死人であることは不謹慎ながら不幸中の幸いだと言えよう。喋って舌を噛み死ぬこともなさそうだ。なにしろ私は心霊現象や都市伝説の類にはとんと疎く、義務教育程度の知識しか持ち合わせていない。故に先刻から平気で並走して窓をノックしてくる何某かについては、助手席の幽霊に訊ねるほかないわけだ。
「ええと、幽霊さん」
「あかりです」
「あかりさん」
「はい」
「トンネルにまつわる怖い話、なにかありませんか」
「こんなときに怪談ですか?」
「んなわけあるか。いるんですよ、車の外に誰か」
「えっ、大変! なんとかしないと!」
「なんとかしたから訊いてるんです!」
「……ええっと、思い当たるのは、『首無しライダー』か『ターボババア』ですね。あと『口裂け女』も足が速いそうですけど」
最後のだけはさすがに知っている。この国で最も有名な都市伝説だろう。べっこう飴をあげるかポマードと唱えれば逃げ去ってくれるそうだ。理由は知らない。ポマードがトラウマならしい。しかし手元にある食べ物はミントのガムのみである。となるとポマード詠唱でなんとかするほかない。もっとも、口裂け女が廃トンネル内に出たという噂は幼少期より耳にしたことがない。いまは聞くからに速そうな前者二つについて訊かねばならん。
「最初の二つ、詳しく」
「首無しライダーは、名前の通り首の無いライダーがバイクで追っかけてくるってお話です。バイク事故で首のもげた少年の霊が、レースしたさに憑りついてくるとかなんとか」
「馬鹿なんじゃないですかそいつ。で、後者は」
「ターボババアは、正直よくわかんないです。なんかお婆さんが自慢の健脚で追いかけてくるそうですけど」
「気持ち悪っ。追いつかれたりしたらどうなるんです?」
「事故って死ぬんだとか」
それはそうではなかろうか。灯りもなく見通しの悪い廃トンネル内で単車およびそれに等しい速度で走ってくる老婆とF1ごっこを繰り広げているのだ。追いつかれようが逃げ切ろうが交通事故で死ぬのはなんらおかしなことではない。
「なるほど。とにかく追いかけられるのがヤバいって話ですね」
「なんでそんな落ち着いてるんですか。怖くないんですか」
「怖いに決まってるでしょう」
ただでさえ呪われた身に、どうして災厄が重なろう。こんなところに来なければ、などとはもう意味をなさないタラレバである。後悔さえも追いつかない速度で、いまはただ逃げるしかない。軽口を叩かねば正気を失ってしまいそうだ。賀茂村が起きていれば、幾分マシであったろうか。震える足を押さえつけるように、力いっぱいアクセルを踏みしめる。
雨でも降っているのだろうか。それとも踏み散らした石片が反射してぶつかっているのだろうか。いや、そのどちらでもないだろう。執拗に離れず重なりあう手形の奥、指の節で窓を叩く音がする。私は右手をハンドルから放し、ドアについているはずのスイッチを探る。
「窓、開けるんですか!」
「もう、そうするしかない」
「危険です!」
「どのみちこのままじゃ前が見えないんだ! とっくの前から危険なんて生ぬるい状況ではない!」
いまにも決壊しそうなほどの涙を押しこめようと、彼女はぎゅっと瞬きをした。それでも不安の色が滲むのか、目頭が赤らんでいる。私はどうだろうか。
「開けるしか、ないんだ」
諭すように、声に出す。声に出さねば、頭でわかっていても、指先が拒否するのだ。喉がすきま風のように高く鳴り、呼気が小刻みに震える。肩を、腕を、手首を通る力が、指先まで伝わらない。ほんの数センチがうまく動かない。砕けるほど歯を食いしばり、ようやくスイッチはカクンと頷いた。
埃でも溜まっているのだろう、窓は滑らかには開かない。私の腹の裡を写したように、ず、ずず、と、汚れたガラスが恐る恐る下がっていく。躊躇いを孕んだままの私を揶揄するような、不快ながたつきである。四角い縁の中を、上からゆっくりと塗りつぶすように黒がひろがる。揺らめく輪郭が浮かび上がるのは、ほどなくしてのことだった。闇に紛れて、確かに何者かがそこにいる。全身を突き抜ける怖気に堪らずスイッチから指を離したが、もう遅かった。溢れる影にこじ開けられたように、あるいはへばりついた手形に引きずられるように、窓はひとりでにドアの内へ消えていく。
鮮明に広がる暗黒のなか、私はそれと目が合った。鈍色の髪を振り乱し、深く深く刻まれた皺はまるでひび割れのようである。肌は怨毒が巡っているかのように蒼白く、薄く干乾びた唇は不気味な笑みを湛えている。私はどこへ行けど逃げられぬと悟った。赤く血走った双眸をギョロつかせた老婆が、こちらを凝望したまま走っているのだ。
3
この廃トンネルへ迷いこんでどれほど経ったろう。アクセルを踏み込んだまま数刻は過ぎたように思う。いよいよ私は進んでいるのか止まっているのか判然としなくなっていた。しかしどうやらこの真っ黒い景色は矢のように、いやきっと矢よりも速く流れているようである。窓の向こう、私と同じ速度で走っている者がいるのだ。長い髪をなびかせた老婆がこちらを向いたまま、ニタニタと笑みを浮べ、走っているのだ。バイクで。
私が老婆以上に目を剥いたのは言うまでもない。驚愕のあまり顎関節が馬鹿になってしまった。シートベルトをしていなければ命まで危うかったろう。咄嗟に助手席を振り返るも、とても助けは求められそうにない。どうやらあかりさんも衝撃が八割かた顎関節にきているようだ。残りに二割は全身に伝播したと見える。賀茂村は我関せずとばかりにすやすやだ。
再び窓に目をやる。やはり老婆がバイクでピッタリと横についている。しかもあろうことかヘルメットをしていない。ノーヘルだ。老婆でしかもノーヘルだ。ノーヘル老婆は薄ら笑いを浮べたまま、煽るようにアクセルを回し猛獣の怒号のような轟音を響かせる。
何ババアだこれは。ターボか。ターボババアでいいのか。しかしターボなのはバイクであってババアはターボではない。ただのノーヘルババアである。しかしノーヘルババアであろうと依然得体の知れないババアであることに変わりはない。むしろ超常的な脚力ではなく原動機を駆使して煽り運転をしてくるのが生々しくて不愉快である。アンタさては生前もそんなことしてたんだろ。
老婆は嗄れたうめき声を漏らす。ひん剥いた血眼をこちらに向け、呪詛のように繰り返す。なんと発しているのかはあいまいでしかない。ただ骨の浮いた指をお辞儀させ、私を呼び寄せようとしているように見える。はたしてこれは無視してよいのだろうか。しかしシカトを決め込んでも駄々をこねて無理を通そうする女幽霊と今しがた遭遇したところである。観念して耳を傾けるほかないであろうか。電波の悪いラジオのようにざらついた老婆の声は、次第に鮮明さを増していく。
「私、キレイ?」
知らんがな。それを尋ねるためにずっと追いかけて窓を叩いていたというのか。年を重ねても容姿が気になるのは無理からぬ話ではあるが、だからと言ってバイクで追跡してまで聞くことか。
しかもよくよくその皺顔を見てやれば、口などちっとも裂けておらず、染みの一つも隠そうとしていない。まったくのすっぴんである。なんら異変もなければ化粧もしていない年老いただけの顔の美醜を問われている。模範解答もわからなければ、そも設問の意図さえ皆目見当がつかない。まさかこんな形で己の女性経験の貧しさが露見するとは。否、こんな無理難題、答えられる者がいるならいますぐ名乗り出よ。なにが首無しライダーだ。なにがターボババアだ。なにが口裂け女だ。ふざけろ。いま私が遭遇しているのは、ノーヘルすっぴんババアである。
「あかりさん、ポマードですか。ポマードでいいんですか」
「でもその人、口裂け女じゃなくないですか?」
「じゃあどうしろってんです!」
「べっこう飴はないんですか。口裂け女はべっこう飴あげると喜んで追って来なくなるそうですよ」
「アンタいま口裂け女じゃないって言ってたでしょうが!」
「じゃあもうなんでもいいから、なにかあげてみましょう!」
「犬じゃないんだから」
「あるじゃないですか! ミントのガム!」
女はドリンクホルダーに手を伸ばし、ガムボトルの蓋を開ける。ひとつ口に放り込むと、残りを私に持たせた。ハンドルを握る手を奪われ人妻の細い指で手のひらをこじ開けられガムボトルを掴まされるその一連の流れは、こんな状況出なければ正直もっと味わっていたいものである。
「ほら! あげてみてください!」
「老婆にガムを嚙ませるのか。この人でなしめ」
「お婆さんだってガムくらい噛むでしょ!」
私は促されるがままにガムを差し出した。ええいままよとでも叫びたい。もし老婆がガムに入れ歯を持っていかれ憤慨し腹いせに私が殺されたら誰が責任を取ると言うのだ。あるいは手が滑ってガムが滑落し猛り狂った老婆が私を手にかけようとしたとき、誰が弁明してくれるのか。賀茂村か。賀茂村が腹を切って詫びるのか。それはちょっと見たい。
老婆は何の躊躇いもなく、そしてなにか害をなそうとする素振りもなく、素直にガムを受け取り口に放った。二個放った。
老婆は見せつけるように咀嚼する。健康に生えそろった歯を自慢したいのだろうか。品性も知性もない下卑た笑みでくっちゃくっちゃとガムを噛んでいる。不快である。咀嚼音ほど私の繊細な神経を逆なでするものはない。あの独特な粘りと水気を孕んだ異音は鼓膜より脳へ届き全身へ行き渡ると毛穴という毛穴を余すことなく隆起させるのである。無論、犬畜生も嫌いだ。
ハンドルを面舵一杯ぶん回す。怒り任せに急接近する車体を、老婆は憎たらしく回避した。反動で暴れるマシンを制御しようとするも、かえって荒波にもまれるようだ。やはりマリオカートとはわけが違う。ようやっと姿勢が安定してくると、窓のすぐそばに白髪がちらついた。老婆は口腔を広げ、糸引くように張りついた咀嚼済みのガムを見せつけてくる。私のなかで堪忍袋の緒が爆散する音を聞いた。
このババアはたしてどうしてやろうか。轢こうか。いっそのこと轢いてしまおうか。一体全体なんの未練があって道行く善良ないちびり観光客にバイクでつきまとい、もとい憑きまとい、なぜゆえヘルメットも被らず顔の善し悪しを問うてくるのか。それを解明するだけの精神的余裕は私にはない。皆目見当もつかぬ。美醜もわからん。いや、咀嚼後のガムを見せつけてくる老婆が美しくあってたまるか。仏も顔負けの莫大な器を有する私の過敏な腸がふつふつと煮えくり返り肛門が痛い。
さてこの奸佞甚だしく歪んだニヤケ面を睨んでは前方確認を繰り返すうち、かすかな異変を我が脳が確認した。フロントガラスを覆う掌がどこか薄らいで見えるのだ。私はハンドルを片手で握り、窓から顔を出す。ずっと遠くに、ほんのわずかだが、暗闇に針で穴をあけたような光が見えた。それはまさしく一筋の光明と言えよう。このトンネルを抜ければ、光差す場所へ出られるのだ!
差し当たって私はこの厭らしい暴走族ならぬ暴走単騎老婆とのレースに終止符を打たねばなるまい。とはいえアクセルはとうの前から踏みっぱなし、これ以上の加速は見込めない。並走するばかりで追い越そうとしない老婆もおそらく同様であるとみた。
「あかりさん、首無しライダーとかターボババアって、抜かれたらその場で死んだりしましたっけ」
「いや、さすがにそこまでは……。あっでも負けたら事故に遭ったような」
「事故ですね?」
「えっ、あ、はい」
「わかりました。この勝負、こっちの負けです」
助手席から素っ頓狂な声があがるよりはやく、クラッチを蹴り込む。車はひとたびエンストし、速度をグッと落とした。老婆は皺まみれの顔を歪めハンドルを切る。得意げに眼前に割って入り、このレースは貰ったとばかりに奇声をあげた。よろしい、そんなに勝ちたいならこんなレースくれてやる。私は車が止まってしまう前にすかさずキーをひねり、再び速度を上げる。
「くたばれ!」
これまで紳士的態度を貫いてきた私の放つ唐突な心の雄叫びにあかりさんは肩を飛び跳ねさせた。こればかりは本当に申し訳ない。私とてこのような蛮骨極まりない言葉を賀茂村以外に浴びせることは誠に遺憾である。まして人妻の耳に罵詈雑言を触れさせるなど我が性的道徳に反する。しかし思ってしまったものは仕方あるまい。私はいい加減あのノーヘルすっぴんババアにはご退散願いたかったのである。
破壊的速度で老婆と激突した。ひび割れたフロントガラスの隙間から老婆の鋭い悲鳴が突き刺さる。幸いここは日本国憲法が通用しないらしい。老婆の怨霊を撥ね壁に叩きつけたとて、なんの罪にも問われまい。フロントガラスに老婆をはりつけたまま、私はブレーキも踏まずまっしぐらに突進した。アクション映画も顔負けの力技で立ちはだかる壁を粉砕する。雷鳴のような轟音とともに光がひろがり、長い長い闇を脱した。衝撃でエンジンは完全に停止し、車体は慣性と摩擦により激しくのたうち回る。やがて揺れが収まったとき、私は気を失いかけていた。
ハンドルを離し、震える手を胸にあてる。全身が酷く痛むが、どうやら命に別状はないようである。これほどの災難に見舞われなお生きていることはむしろ奇怪な状況でもあるのだが、兎角私は生きていることに安堵した。バックミラー越しに後部座席に目をやる。賀茂村がいくらか芋虫のようにもぞもぞとうごめいていたが、やがて心地よい角度を探り当ててのかまた寝息を立てた。殊勝なやつである。あるいは奇矯なやつである。
あかりさんもどうやら無事と見える。魂の抜けた様相でぴくりともしないが、幽霊たる彼女は撥ね飛ばしても平気な面で乗車してきたのだ。私も賀茂村も無事なら彼女が無事でない理由もなかろう。その証拠にやはり彼女はすぐに意識を取り戻すや、真面目か軽口か判然としないことを口走った。
「はー、また死ぬかと思った」
車外へ出る。冬の夜明けのような、つんと冷えた空気が立ちこめている。ふっと吐いた息が白みかかって、もみ消されるように霧散していった。淡々と伸びる深紫の空は真夜中とも朝ぼらけともつかない妖しさを湛えている。雲もなければ星もない。
ひしゃげたボンネットの上で老婆がぐったりとしている。安否を確認しようと恐る恐る顔を覗き込むと、性懲りもなくガムを噛み続けていた。そうか無事か。無事ならいいんだ。無事かどうか気になっただけなんだ。ガムは見たくない。口を閉じろ。相変わらず綺麗な歯並びである。バイクごと壁とサンドイッチにしたというのに、見たところ外傷はない。なんだか賀茂村みたいで憎たらしい。
風もなく木々が揺れる。遠くを見渡せば影絵のように暗澹とした森が立ちこめている。見渡す限りにそびえる山々はところどころに霞を纏っており、人里などは知らぬ存ぜぬと言いたげだ。微かに蠢く輪郭と枝葉の擦れる音が笑い声のようで気味が悪い。熟語的表現があつらえたようによくはまり、しかしそれでいて文字通りの、文字通りという言葉さえ文字通りの、まさしく深山幽谷と言えよう。はたと気がつくと、今しがた通ってきたトンネルが消えていた。
視界の端に看板が見える。都会の清く明るい道案内とは違い、擦れた色合いのまま乱暴に吊り下がっている。手招きするようにすっと敷かれた一本の線路は、どこまで続いているのかわからない。きっとここへ来る電車は、ひとたびここを発ってしまえば皆同じ方へ吸い込まれていくばかりであろう。
そこには如月駅と記してあった。
4
一難去ってまた一難。否、賀茂村が迎えに来たその瞬間から、ずぶずぶと災難の沼に沈降している気がしてならない。ほんの軽い気持ちで旧犬鳴トンネルを目指していたはずが、いつの間にやら如月駅へ迷いこんでいる。線路の行く先は前も後ろも草木に覆われ、どこへ繋がっているのかわからない。
これがあかりさんの目指した如月駅か。たしかに異界然とした趣はあるが、果たしてエレベーターのような現代の設備があるとはとても思えない。当の彼女もここへは初めて訪れたらしい。当然だ。ここは辿り着いてはいけない駅なのだから。
こうなってはいよいよ助かる道も糸瓜もない。せめて糸瓜でもあればチャンプルーにして腹の足しにしてやろうと思ったが、糸瓜だけではチャンプルーは作れない。この際、生でもいいから食えそうな糸瓜を探してみたが、やはり鬱蒼と茂る針葉樹が見えるばかりで、駅に糸瓜はない。しばらくして、私の想像していた糸瓜がゴーヤであったことに気づく。糸瓜ってなんだろう。
しかしいまは糸瓜より打開策を探さねば。せめてトンネルがあれば逆走すると戻れたかもしれんのだが。怪奇現象そのものであるあかりさんも当惑しているようである。私はひとまず、後部座席で未だぐっすりな賀茂村を起こすことに決めた。彼奴がいると話がややこしくなりそうでしかたないのだが、状況が状況だ。猫の手よりは有益だろう。
「おい賀茂村、起きろ。やい、やい賀茂村」
毛布を剥いで軽めのビンタを二、三往復試みたが、寝ぼけた呻きをあげるばかりで起床の兆しはまるでない。よほどお花畑な夢を見ているというのか。
「駄目です。こうなっては彼を起こせるのは猫耳女子のみです」
「どうしましょう。あたし、猫耳なんて生えてませんよ」
誰も持っていなくて当然である。そう思った矢先、老婆が懐から猫耳カチューシャを取り出した。なぜだ。どうして持っているんだそんな呪いのアイテムを。何たるご都合。
「わぁかわいい! これつけて起こせばいいんですか?」
「いけません! あなたにそんな汚れ役はさせられない。せめて私がやります」
「でもあなた女の子じゃないじゃないですか」
「あっ、そうか」
究極の二択である。猫耳人妻は見たい。すごく見たい。しかし賀茂村に猫耳人妻を見せるわけにはいかない。けれどできるなら賀茂村は起こしたほうが良いだろう。ふたりして頭を抱えているところ、骨ばった指が肩をつつく。そこにはキジトラの耳を装着した老婆が立っていた。
「私、キレイ?」
なんてこった。こりゃおぞましい。やはりあかりさんにつけてもらうべきであったか。しかしあかりさんは目を輝かせてかわいいかわいいと連呼している。キジトラ老婆もまんざらでもない様子だ。それならこれでいいのかもしれぬ。猫耳人妻にやさしく頬をぺちぺちされながら名前を呼ばれ起こされようものなら、至福のあまり賀茂村は再度目覚めぬ眠りに落ちるやもしれん。私とてそうなる。
老婆は後部座席の側によると、賀茂村の身を揺すりはじめた。その様はあと五分とぐずる孫を起こそうとする祖母のようでもある。もっとも、猫耳祖母など起き抜けに見れば私はこれは悪夢かと二度寝をするが。私も老婆の隣で、起きろと続ける。
「うぅん、なんです一体」
身を起こしながら、賀茂村は目をこする。寝起きの悪さに一家言ある賀茂村が、随分はっきりとした口を利く。やはり本能的に猫耳を察知したというのか。
「私、キレイ?」
しかし賀茂村の目に飛び込んだのは、咀嚼したガムをねばつかせた老婆の口腔である。このババア、なんてことをしやがる。せっかく起こした賀茂村が再び夢の世界へ帰ってしまった。もしかするとショックで二度と目覚めぬやもしれん。けれどなんとなく、こうなる気もしないではなかったが。すまん、賀茂村。許せ、賀茂村。
「どうします? 賀茂村はもう起きないとして」
「私、キレイ?」
「はいはいキレイキレイ。トンネルは消えているようですし、線路もどこへ続いているかわかりませんよ」
「エレベーターを探しましょう」
あかりさんがハイと手をあげ提案する。そういえば彼女はそれが目的だった。如月駅から、さらなる異世界へ。そのために、エレベーターが必要不可欠なのである。怪しげなことこの上ないが、かといって線路の先に佇む森を探検するのも危険であろう。否定する理由はなかった。
念のためロックをかけておき、なにかあったらすぐに駅を出ろと書置きをして、車から離れる。奴は学業は私に唯一追随でき得るほどの低空飛行っぷりであるが、頭の悪い男ではない。愚か者だがキレるやつだ。賢くはないが小賢しい。異界の駅にて私の筆跡で「逃げろ」ではなく「駅を出ろ」と記したメモを見れば、改札口を目指せるくらいには意を汲める。途中でエレベーターを発見できたならなおさらだ。それでも念には念をということで、私たちはガムを等間隔で落としながら先へ進むことにした。
ホームによじ登ると、存外どこにでもある駅の風体をしている。塗装の剥げたベンチがあり、空っぽのゴミ箱があり、なぜか自販機まで設置してある。そういえば喉が渇いた気がしないでもないが、冥界のザクロのように口にすれば帰れなくなってしまうかもしれない。老婆がじっと見つめていたが、声をかけるとすぐについてきた。子供のような婆さんだ。
「確認なんですがあかりさん、本当にこんな駅にエレベーターなんてあるんですか」
「うーん、でも、駅って結構エレベーターあるじゃないですか」
「駅のエレベーターって乗り場と改札、一階と二階しかないのでは」
そうでなくとも、そもそもエレベーターなどないように見える。なにせ錆びついたフェンスが埋もれるほど針葉樹が生い茂っている。とても建物の類が、それもエレベーターのような装置があるとは思えん。よくある駅のようとは言っても、あくまで寂れた田舎のそれなのだ。
ホームはひたすらに続いている。私たちが端から上ったこともあるのだが、それを加味してもやたらと長い。殺風景な景色が淡々と伸びている。ベンチ、ゴミ箱、自販機。またベンチ、隣にゴミ箱、傍らに自販機。まるで同じ道をぐるぐると廻っている気分だ。そろそろガムボトルが空になろうかというとき、我々は足を止めた。
乗り場のど真ん中に、エレベーターが設置されている。その様相はやはりというか異世界に繋がっているようには見えず、乗り場と改札のある階を繋ぐ、バリアフリーのそれに見えた。
「これ……ですかね」
「多分、これです」
あかりさんは、コンクリートをすこしなぞると、そのままボタンを押しエレベーターを呼んだ。なんの迷いもなく、なんらためらいなく。
「もっとこう、逡巡とか」
「え、だってこの方がはやいじゃないですか」
「そうですけど」
ゴウン、ゴウン、と遠くから音が響く。やがてそれが近づいてくると、今度は次第にゆっくりになり、ぴたりと止んだ。ちん、と鈴を弾いたような音がして、ドアがゆっくりと開く。現れたのはどこにでもあるカゴである。ショッピングモールなんかのそれと、そう変わったものではない。しかしなぜだろうか、私にはどうしても、開いてはいけない門を開いたように感ぜられる。露骨なほど怪しいはずなのに、どこか懐かしく見えてしまい、それがたまらなく不気味であった。
あかりさんは臆することなく、自然な足取りでひょいと乗り込んだ。はやく、と言わんばかりに手招きする。いたずらをしたくてたまないこどものような、爛々とした瞳だ。私が警戒心を拭いきれぬ間に、老婆も乗り込んでしまった。
駅のエレベーターだというのに、ボタンは十階まで用意されている。しかし線路から見た駅舎は平屋であったはずだ。地下が深く続いているのだろうか。だとすれば、地下から元の世界へ繋がってはいないものか。
あかりさんが急かす。老婆もじっとこちらを見てくる。どうやら私も一緒でないと動く気はないらしい。ありがたいのやらどうなのやら。私も腹をくくるしかないようだ。どのみちここで考えていて帰る術が思いつくでもないだろう。
「それで、どうやって異世界にいくんです」
「大丈夫です。あたし、知ってますから。手順があるんです」
彼女は手早く、カゴが動き出すより前に、順番にボタンを押していく。まるでパスワードを打ち込むみたいだ。すべて押し終えたのか、あかりさんは手を止める。すると待っていたようにカゴはひとつ身震いをすると、ゆっくりと昇り始めた。あかりさん曰く、次に止まったとき、また手順があるらしい。
四、二、六、二、十。忙しなく昇降する。どの階でも扉は開かない。五階へ辿り着く。冷や汗が首を伝う。密室のままであるはずなのに、風が通り過ぎていった。生ぬるい、吐息のような風だ。「開」を押せば、まだ引き返せるだろうか。いいや、もう不可能だ。それを告げるために、あの風は髪を撫でたのだ。一階を押す。ランプがつく。全身を掴み押さえつけるような、気色悪い重力。我々を乗せたカゴは、上へ上へと昇っていく。
鈴の音。身体が拘束を解かれたように軽くなる。いつのまにか充満した沈黙を、破る者はいなかった。あかりさんが静かな目で、「開」ボタンを押す。まっすぐ引かれた縦線から光が漏れ出す。扉の開いた先は、どこかの家のリビングのようであった。陽だまりに置かれたソファに父子らしい二人が腰かけている。
「旅行の途中で、事故に遭ったんです。十年以上前かな。ちょうど、あのトンネルの近く」
おもむろに、彼女は口を開いた。そうか、そういうことか。それでもそういうことと初めから言わなかったのは、彼女なりの気遣いだったのだろう。
「夫と息子はすぐに逝ったんですけど、あたしだけ時間がかかって。救急車であのトンネルの横を通り過ぎるときに、ようやく事切れたみたいなんです。だからあの場所に吸い寄せられて、トンネルから出られなくなったんだなって」
生き別れよりも残酷な、死に別れ。あとを追うこともあの世で待つことも許されない、未亡人ならぬ既亡人。彼女にとって、心霊スポットに縛られたことが、唯一の救いであったのかもしれん。物見遊山に車で訪れる者が、一縷の望みだったのかもしれん。こうして、家族の元へ帰るために。
「ありがとうございますね。そうだ、お礼しなきゃ」
「いいですよお礼なんて。どうやらこの辺、マクドナルドはないみたいですから」
なんです、それ。彼女が笑う。美食の極致たるダブルチーズバーガーの魅力は伝わらずじまいのようだが、それもいい。ほら、とドアの向こうへ目をやると、では、と彼女は頷く。
彼女が一歩踏み出す。父子がこちらを向いた。エレベーターから出て、ようやくあちらも気がついたらしい。子どもは目を輝かせ、十数年待ちわびた母を、在りし日の姿で手招きした。父は穏やかな瞳で、やさしく妻の名前を呼ぶ。彼女のかかとがこの四角い箱から離れると、ドアがひとりでに動きはじめた。ゆっくりと消えていく境界線の向こう、映画のワンシーンのような幸せが描かれている。細く切り取られた光の中で、あかりさんが手を振っていた。私もつられて小さく返した。彼女には届いたろうか。
ドアが閉まる。しんと静まった狭い空間がどことなく気まずい。共通の友人が急用で帰ったような居心地の悪さだ。依然目的の判然としない老婆とふたり取り残され、はたして帰れるのだろうか。老婆は一歩前に出ると、あかりさんと同じ手順でボタンを押し始めた。
上、下、身体が軽くなったり、重くなったり。あれだけ暴走行為を繰り返していたこの老婆にも、行きたいところがあるというのか。老婆はその風体とは裏腹に、丁寧な手つきで順序を追った。
重力に逆らい、ぐんと上昇する。最下層を指定した私たちの意に反して。最上階で、停止する。鈴の音がひとつ鳴る。ドアがひとたび開きはじめると、そのわずかな隙間から獣の雄叫びのような轟音が響いた。四角い枠の向こうに写るのは、猛々しい大型バイクを手懐けた、金髪の青年であった。
特に語られたわけではないのだが、しかし語らぬその姿から何故ゴーストライダーに至ったかがなんとなく見えた。もっともこんな話になるとはよもやよもやであるのだが。老婆はゆっくりと男に近寄ると、その目鼻立ちの良い顔をうっとりと見上げる。
「私、キレイ?」
男はひとこと、おう、と強くうなずくと、老婆の手を引いた。男がバイクにまたがると、老婆はその後ろについた。フーセンガムを膨らます彼の背中にピッタリとくっつき、べっ、と舌を出す老婆は、なるほどたしかにお転婆な年ごろの少女にも見えた。汽笛のようにひとつ唸ると、バイクは瞬く間に去っていってしまった。思えばキレイかどうかしか口にしない老婆であったが、随分と賑やかな老婆であった。どうか事故だけしないようにと願う。
さて一人になってしまった。ひとまず賀茂村を起こしに戻ろうかとも思うが、果たして私たちが乗り込んだのは何回だったのだろうか。私の通う大学はバス停から続く屋内が三階だったりする。
そのとき私の卓越せし脳細胞が雷のごとく激しい閃光を発した。私も彼女らのように異世界へ行くのだ。彼女らが飛んだ異世界は「彼女たちが帰りたいと願った場所」である。であれば私は乗ってきた地上階へ戻れるのではなかろうか。試す価値はある。
二人の操作手順を思い出す。四、二、六、二、十だ。一度一気に下降すると、さらに下、今度は上、また下と、ボタンの通りに動いていく。それから上へ上ると一旦停止して、五階へ。風が吹く。もう帰れない。いや、帰れるのだ。どこへ行きたい。どこへ帰りたい。そう訊ねる風だ。私はすこし思案して、一を押した。
ランプの示す階とは真逆へ、ひと息に上昇する。振出しに戻ることにはなるが、なんとか賀茂村を起こせればどうにかなるに違いない。鈴の音。扉が開いた先は、車内であった。
私は首だけ伸ばして、扉の向こうを確認する。どうやら車のドアと直接繋がっているようだ。フロントガラスから、景色が見える。すこし濃い青の、夕暮れ前。夏の空だ。どうやら私が辿り着いたのは、帰り着いたのは、トンネル侵入以前である。
打ち捨てられた看板。『きけん コノ先 日本国憲法 通用セズ』と記してある。カラフルなコンクリートブロックはヤンキーの仕業だろう。果たして参上至上主義の彼らが丁寧にブロックを彩ったのはなにゆえか。後部座席の賀茂村に声をかける。
「お、着いたんですか」
「おお、起きたか」
「では行きましょうか。運転かわりますよ」
寝起きだというのに珍しくしゃっきりしている。こいつひょっとして狸寝入りだったのではないか。ウキウキと猿のように弾む彼の声に首を振り、運転席を陣取った。エレベーターの扉が閉まる。そして瞬き一つの間に、車のそれに変わっていた。
「なぁ賀茂村、やっぱり引き返さないか」
「あらどうしたんです。ひょっとして、怖気づいたんですか」
賀茂村は挑発的な笑みを浮べる。いつもならひっぱたくかぶん殴るか迷った末スネを蹴るくらい品性下劣な笑みであるが、今回のところは見逃してやろう。
「ああ、怖気づいた」
「なぁんだ。それは仕方ありませんね、つまんないの」
「すまんな。お詫びと言ってはなんだが、帰りにマックでなにか奢ってやる。ダブルチーズバーガーでいいな」
「結構です。僕はあんな愚かな食べ物、口にしませんよ。その代わり、帰りの運転頼みます。僕は心霊スポットじゃなきゃ運転したくない」
「奇遇だな。俺もちょうど、心霊スポット以外を走りたいところだった」
「よくわかりませんけど、とにかく僕は二度寝します」
「ああ。三度寝もしていいぞ」
私は車を出した。慎重に山道を降り、一般道へ。高速道路の合流もうまくいった。なにしろさっきまでハチャメチャに飛ばしていたのだ。いまさら七十キロだとか八十キロだとか、その程度なら下道と大差なく思える。数時間ぶりののんびりとしたドライブだ。ガムでも噛みながら、ハイウェイを楽しもうと思う。もっとも、トンネルはごめんだが。
それからしばらくして、久しぶりに我が下宿のある街へと戻った。日はすっかり沈んでおり、カレンダーが一枚めくれようとする頃だ。一刻もはやく布団で横になりたいが、その前に寄るところがある。賀茂村の家だ。我が下宿には駐車場がない。賀茂村を家に送り、車も彼の家に返却せねばなるまい。七面倒な話ではあるが、こればかりはしかたないだろう。歩くのが面倒なので彼が起きたら恐怖体験の慰謝料として自転車をふんだくることも一考しておく。
豪奢でもなく廃れてもいなく、いたって普通のありふれた一軒家である。かつて一度だけ訪れたことがあるが、しかし未だにこの賀茂村という奇天烈極まりない男とこのカタログ通りの民家が一致しない。埃をかぶった廃ビルなんかに住んでそうな顔は、後部座席で寝息を立てている。いまさら起こして目を覚ますとも思えないので、申し訳ないが家の人に運んでもらうとしよう。
表札の隣に添えられたインターホンを鳴らす。この時間ほど何をしていいかわからないものはない。駐車場に目をやる。私の乗ってきたものと同じ車が停められている。鍵の開く音がして、反射的によそ行きの顔を準備する。
「あれ、なにしてるんです?」
出てきたのは、賀茂村だった。
「ていうかそれウチの車じゃないですか! あれ、でもウチのもあるな」
「お前こそ、なんで家にいるんだ」
「え、メールしたじゃないですか。今晩推しの猫耳配信があるからやっぱなしでって」
そういえば、賀茂村がウチに来てから、いや、それどころか起き抜けに時間を確認してから、スマートフォンを一度も開いていない。トンネルで使おうとしたときには、すでに光るだけの液晶画面と化していた。車内から、講義中よく耳にする悪友のあくびが聴こえる。
「なあ賀茂村、お前ダブルチーズバーガーについてどう思う」
「なんです藪から棒に、不毛な話題を」
「いいから」
「あ、もしかして僕がドタキャンしたから奢らせようってんですね。その手には乗りませんよ。よしんば奢ったとしてチーズバーガー二つの方がマシです」
「店員が猫耳だったら?」
「買いますよ百個でも二百個でも。それが猫耳店員に対する敬意です」
「そうか。じゃあ、じゃあ、じゃあ……」
「なんですあなた今日ヘンですよ。ところで、うしろにいるのはどなたです?」
背後で、ドアの閉まる音がする。重いような軽いような、独特の、低く短い響きだ。覗き込むように首を伸ばした賀茂村が目を丸くした。私はいよいよ耐えきれなくなって、ただただ必死に駆け出した。それから先のことはいまいち覚えていない。ただ気がつけば私は下宿の玄関先で死に伏せたように倒れ、日曜日を迎えていた。どうやら帰れたようではあるが、全身が軋むように痛む。手のひらや膝はどこかで擦りむいたようで、うっすらと砂がまぶしてある。立ちこめる汗のにおいが鼻についた。
週明け、まだ痛む足を引きずって大学へ行った。課題を提出せずに受講するドイツ語はひどく気まずかった。講義が終わると、賀茂村がマックことマクドナルドへ行きたいと言う。ナゲットのクーポンが出ているらしい。ダブルチーズバーガーのクーポンは期限が切れていたが、どうしようもなく腹が減ったので誘いに乗った。今週いっぱい、朝晩は具なし茶漬けである。
賀茂村はいつもの調子で猫耳について熱弁する。本日のテーマは猫耳に尻尾は必要か否からしい。特に意見もないので黙って聞いておく。賀茂村が楽しそうであれば咎める理由もない。
私が彼になにを話せようか。あの夜私の身に起こったことを詳らかに語れば賀茂村はそれを肴に酒を二本も三本も明けること請け合いだ。はたまたあの日突如気が狂ったように喚き散らし逃げ出したことについて謝罪すれば、孫の代まで笑い種として語り継ぐだろう。
しかし私にはそんなことはできない。あの悪夢のような一夜の話は、きっと墓まで持って行く。懺悔室でも言葉にできないだろう。私はただひとりで、我が唯一の友人に対し、永劫晴れぬ罪悪感を背負い生きていくことになる。なにしろ、いま目の前でナゲットを頬張るこの男が、本当に賀茂村か確かめるすべなど、私にはないのだから。
了