群青の夢

森野真宵

 まぶたにかかる朝日から逃げるように身を起こした。ぼさぼさの前髪をなでながら、手探りでスマホをさがす。電源ボタンを押して液晶画面に時間を表示させる。六時五十八分。あと二分でアラームが鳴る。それまでもうすこしぼーっとしておこう。おぼつかない脳でそう考え、壁によりかかる。

 

 昨夜は寝つきが悪かった。おかげで首筋が鈍く痛む。頭も重い。まるで夢の余韻がまだ残っているみたいだ。目を閉じて、記憶に残っている架空の光景を思い出す。

 

 僕は海に沈んでいた。頭からまっさかさまに、ゆっくりと深く深くへ落ちていった。白い光が僕を追いこしていく。マリンスノーだ。その正体はプランクトンの死骸だけれど、星が降るみたいで幻想的だった。泳げないくせに、よく海の夢をみる。たいていはもがいたりせずにただ沈む夢。たまに浮いているときもあるけど、結局波にのまれたりする。それから息が続かなくなって、だんだん意識が遠のいて、目が覚める。

 

 突如鳴り響くドラムと、追いかけるようにギターの音色。デジタルアレンジされた清涼感のあるサウンド。アラームに設定している曲だ。好きな曲なら毎朝心地よく起きられるかなという試みだったけれど、反射的にアラームを止めるからあんまり意味はない。それでも習慣とはすごいもので、意識より先に身体は動きはじめる。

 

 あくびをしながらベッドを離れる。窓に映った僕の髪はいつになく寝ぐせがひどい。ちゃんとドライヤーあてたつもりなんだけどな。生乾きのまま寝ちゃったのかな。昨日はもうお風呂入る前から眠かったもんなあ……。なんておもいながら階段を降りる。

 

 リビングのドアを開けると、ちょうど母が出てくるところだった。おはよう。すれ違いざまにおたがい声をかわす。

 

「ユウおはよう。母さんもう仕事いくからね。朝はパンかってあるから好きなの食べなさいね」

 

母のさす指のさきに、近所のパン屋さんの袋がある。母の行きつけの店だ。

 

「それと」母は開きっぱなしのドアから顔をのぞかせ言った。

 

「寝ぐせ、なおしてから学校行きなさいよ。今日すごいことになってるから」

 

笑いながらちいさく手をふり母は家を出た。僕はそれを見届けてから、パンの袋を手に取る。なかにはメロンパンやコロネといった甘い菓子パンがどっさりはいっている。

 

ちいさいころは菓子パンが好きだった。母はそれを覚えていて、こんなラインナップを用意してくれたのだろう。だけど最近は甘いパンをめっきり食べなくなった。コンビニでお昼ごはんを買うときも、おにぎりの方が好ましい。だけど母はそんなこと知らないから、いまだに僕が甘い菓子パン大好きっ子だと思っている。些細なことすぎて、いまさら訂正する気もないけれど。

 

パンを戻して、洗面所に向かう。先にこの寝ぐせをどうにかしよう。鏡の前に立つと、改めてひどいありさまだなと実感する。波に揺れるクラゲの触手みたいに、うねってひろがっている。右目にかかる前髪だけぺたんこなのは右を向いて寝ていたからだろう。そのくせ一本だけ、立派な角がたっている。

 

霧吹きで湿らせてくしでといても、ちっともなおる気配がない。だんだん面倒くさくなって、僕は蛇口をおもいきりひねって水を浴びた。夏の寝起きのすこしベタつく肌に、冷たい水が心地いい。ついでに顔を洗うと、僕は水をとめた。

 

髪をぎゅっとしぼって、タオルで拭いて、くしでとかしながらドライヤーで乾かす。結局これがいちばん手っ取り早いみたいだ。まっすぐのびた毛先が首筋に触れる。

 

歯を磨いて再びリビングに行って、メロンパン片手に部屋に戻った。ひとくちかじって部屋着を脱いで、またひとくちかじって制服を着る。空気を入れ替えようと窓を開けた。やわい風が舞いこんで、髪とすこしおどっていった。空はずっとむこうまで青がひろがっていて、絵の具が薄まるみたいに端っこのほうが白んでいる。鬱陶しいくらい、いい天気だ。

 

こんな日は学校に行く気が失せる。僕は制服を脱いでその辺にかけてあった半袖のパーカーに着替えた。母さんにバレたら大目玉だけど、仕事の日は帰りが遅い。そういう日にはよく学校をサボる。かれこれ一年ほど、そんな日々を過ごしている。

 

日焼け止めを塗って、僕は家を出た。セミの鳴き声のなか、自転車を漕ぐ。風が肌を撫でるけれど、背中にはじんわりと汗を感じる。やっぱり学校に行かなくて正解だった。三十分ほど自転車を走らせる。学校に行くときと所要時間はそうかわらないが、目的地がちがうと足が軽い。道路沿いに並ぶ街路樹の隙間から、建物の屋根が見える。もう三分もしないうちに着く。僕は速度をあげた。

 

やってきたのは水族館だ。学校に行きたくないとき、僕は決まってここに来る。もっとも、学校に行きたい日なんてないのだけれど。

 

それなりに規模は大きいが、平日の朝だからか客はほとんどならんでいない。僕はポケットから年間パスを出すと、入場口の係員と目をあわせないようにしてなかに入った。

 

青色の光に包まれた途端、ひんやりとした空気があたりに漂う。すぐそばの巨大な水槽は天井がなく上の階からも水中が見られる仕組みだ。水を透かした太陽の光がフロア表面でたゆたっている。幻想的なこの空間はいつ来ても飽きることがない。

 

降りそそぐ光の波を背に受けながら、僕はまっすぐ階段をおりていく。館内を見て回るコースはその日の気分次第だ。今日は日差しが強いから暗いところにいたい。僕はクラゲのエリアを目指した。

 

薄暗い部屋のあちこちに、紫や赤や青といった光がぼんやりと点在する。うっすらと光を纏うクラゲが、水槽の中でただなすがままに揺れている。自我や意識さえ存在しなさそうなその姿は不気味でもあり優雅にも見え、奇妙な神秘を感じさせる。鏡張りになった展示室もまた迷宮のようで、まるで魔法の世界に迷いこんだみたいだ。

 

というか、ほんとうに迷ってしまうことがある。この水族館に通ってしばらく経つが、このクラゲのエリアだけはいまだに構造が把握できないでいる。水槽の照明の色も日替わりのため、クラゲの種類だけが頼りになる。

 

ふらふらとてきとうに歩いていると、どうやら展示とは関係のないところまで来てしまったのか、無骨な鉄扉が現れた。ふつうならこういう扉は施錠されているのだが、今日はなぜか半開きになっている。別に覗いたってスタッフ専用通路かなにかになっているだけだろう。だけど僕は半分ほど期待を込めて覗いてみた。

 

展示用の水槽がひとつ。イルカみたいな遊泳するものがはいるほどの大きさはない。生き物の名前を示すプレートはあるが、なかにはなにもいない。だけどその水槽を眺める人影がひとつ立っている。

 

腰のあたりまで伸ばした長い髪は、淡い照明を吸収しているのか群青に染まっている。背丈は僕と同じくらいだから、女の子だろうか。僕は好奇心に流されて部屋に踏み入った。

 

その瞬間、女の子は僕のほうを振り返り肩をとびあがらせた。物音を立てたつもりはないが、いきなり目があってしまったため僕も驚いた。

 

「誰……?」

 

 澄んだ柔らかい声で、彼女は問うてきた。不審がるでもなく、純粋にこちらを見つめている。

 

「あ、ごめんね急に。別に怪しいアレじゃないよ」

 

 怪しいアレってなんだろう。出会い頭にまず怪しいか否かの弁明をする奴はたいてい怪しい。答えながら、自分の返事が馬鹿みたいだなと恥ずかしくなる。

 

「どうしてこんなところにいるのかなって……」

 

「どうしてって……」

 

 少女は水槽に目を向ける。ゆっくりと目を細めると、そのまま口をつぐんでしまった。彼女にしか見えない幻かなにかが、そこにいるような眼差しだ。水と青色だけが満ちた箱の中を、寂しそうに、懐かしそうに眺める。その姿に僕は思わず息をのんだ。瞳が潤んで見えたのは、切なげな薄明かりのせいだろうか。

 

「この水槽は……?」

 

彼女の隣に立ち、僕も水槽を見上げた。すると彼女は僕を一瞥すると、顔をふせるようにして部屋の奥へ逃げてしまった。悪気はなかったのだが、怯えさせてしまったみたいだ。追いかけようかと一瞬思ったが、躊躇った。僕が入ってきたのとは反対のほうへ行ったが、あの先にまだなにかあるのだろうか。照明が弱いせいで、まるで影にのまれていくようだった。

 

彼女の行方も気になったが、いまはなによりこの水槽に釘付けだ。縦に長く、奥行きもあるようだ。中を満たす水は、なにもいないからかずいぶんと澄んでいる。ぼんやりと揺れる青い空間は岩や珊瑚もなく、まるで檻のようだ。

 

プレートに目をやる。『人魚』と書いてある。ジュゴンやマナティーではなく、人魚。目をこすって見直したり、スマホで写真を撮って画面越しに確認しても人魚だ。文字検出ツールという初めて使う機能を使ってみても、やはり人魚であるようだ。

 

なぜこんなものがあるんだろう。そもそも、人魚なんて本当にいるんだろうか。ふつうに考えたら、いない。けれど水槽がここにあるということは、もしかするのかもしれない。

 

「気になりますかな」

 

 突然耳元に声が聞こえて、僕は悲鳴をあげた。腰を抜かして水槽のアクリル板に身をゆだねる僕の前に、でっぷりと肉付きのいい男が腕組して立っている。チェックのシャツにだぼだぼのジーパン。リュックサックから飛び出たポスター。申し訳なさそうに細まった目の上を一直線に走るバンダナ。僕は夢でも見ているんだろうか。こんな立て続けに想像上の生き物の実在を知るなんて。絵に描いたような古いタイプの、いわゆるオタクがそこにいた。

 

「おお、失敬失敬。驚かせるつもりはなかったのですがな」

 

「あ、いえ、平気です……」

 

「うむ、ならば安心ですぞ」

 

 大きなオタクは深々と頷いた。

 

「普段は閉鎖されているんですがな、たまにこうして空いてる時があるんですぞ。というのもそこの細長いクルーがわが友でしてな」

 

 オタクは斜め後ろを目線で指した。彼の言う通り細長い体の胸元まで髪を伸ばした男が、気怠そうにしゃがんでいる。着崩されたブルーのジャケットは入口の係員とおなじものだ。

 

「言うなよ」

 

「よいではないか。どうせここにいる時点で手遅れですからな」

 

「そういう問題じゃねえ」

 

 細い男はおもむろに立ちあがると、僕のほうに目をやった。長い前髪の隙間から覗く目があまりに鋭くて、記憶でも消されるんじゃなかろうかと全身がこわばった。

 

「おい小僧。バラすんじゃねえぞ。いいな」

 

「あ、はい、大丈夫、です」

 

そのあたりは心配いらない。なにしろ学校をサボりまくっているから、話す相手なんかいない。僕の返答に安心したのか、ため息をつきながら男はまたしゃがみこんだ。

 

「なにもそんなキツい言い方しなくてもよいではないか神戸氏。ところでこれもなにかの縁、名前をうかがっても?」

 

「あ、えと、ふかい、です」

 

「おい後藤言われてんぞ。不快だから失せろってよ」

 

「あ、いやそうじゃなくて、深井です。苗字が。名前は、ユウ」

 

 律儀な奴、と細長い男がせせら笑う。さりげなく交えられた悪態をオタクのほうは意にも介していない様子だ。オタク男は後藤と名乗り、細長い彼を神戸と紹介した。

 

小生(しょうせい)もこのところここに通い詰めているのですがな、この水槽にいる人魚とやらは小生も見たことがないのですぞ」

 

 後藤さんは水槽に手を触れ、まっすぐになかを見据える。

 

「十年前はいたって噂だがなあ」

 

 神戸さんがしゃがんだまま言う。

 

「まあ噂だ、噂。つーかマジでいたらニュースになってるわ。川にアザラシいるだけで大騒ぎだぜ?」

 

「だったらどうしてこんなものが……」

 

「いるのでしょうなぁ。ロマンという水槽を眺める、小生たちの心に……」

 

 黙れ、と神戸さんは一蹴する。後藤さんは気にせずうっとりと水槽に魅了されている。

 

「なんかのショーだの客寄せだのに使うつもりだったんじゃねえの? 作りもんかなんかでよ。なんにせよいまはこの通り、立ち入り禁止だ。基本私らしか入れねえよ」

 

 基本、と強調するのは僕みたいな例外がいるからだろう。神戸さんは若干、いやそこそこ不愉快そうだ。僕がちいさく謝ると、なぜか後藤さんが許しをくれた。神戸さんは巡回や清掃といった名目で、この部屋の管理を勝手にしているらしい。

 

「え、じゃあ、あの女の子はどうしてここに……?」

 

「はあ? 女ぁ?」

 

 神戸さんが声を大きくする。彼は腰をあげながら僕に近寄ってきた。骨のように細長い体を折り曲げて僕と目線の高さを合わせる。まるで不良かなにかに絡まれているような光景だろう。

 

 神戸さんはそのまま問い詰めた。

 

「どういうことだ説明しろ。第一、そもそもお前はどっから入った。どうやって鍵を開けた」

 

 どすの利いた声に僕は言葉が詰まる。目を合わせられない。僕は気圧(けお)されどもりながら状況を説明した。

 

「えっと、たまたまクラゲのコーナーの奥でこの扉がみえて、それで、開いてたからつい……。すみません……」

 

「女ってのは?」

 

「僕が入ったときにいて、すぐに奥のほうに行っちゃいましたけど……」

 

 僕が指をさすと、二人はその先を見た。それから顔を合わせると、不可解そうな顔をした。

 

「あの先行っても外出る裏口しかねえぞ」

 

 

 

 それから僕は昼過ぎに家に帰った。人魚の水槽や謎の少女で頭がいっぱいで、とてもゆっくり楽しめる状態ではなかった。鍵が開いていた理由はどうやら後藤さんのうっかりのようで、こっぴどく叱られていた。

 

 ただいま、と口にするが、誰もいないことはわかっている。玄関に母の靴がない。まだ仕事中だ。ひとまずリビングにむかい電話を確認する。すると案の定、学校からの着信があった。母に見つかると面倒だ。僕はすぐさま着信履歴を消去した。さすがに明日はサボるとまずいな。冷蔵庫からジュースをとって僕は自室に戻った。

 

 

 

 翌朝、重い体を引きずって、這いずるようにベッドから出た。学校に行かなければならない。そう意識するだけで体力を消耗する。僕は床に倒れこんだまま外の天気を確認する。真っ黒い鉛みたいな、鈍く重い雲がずっしりと敷き詰められている。窓を開けると、湿気をはらんだぬるい空気が部屋に流しこまれる。悪いガスでも吸ったような酷い気分だ。晴れは嫌いだが雨や湿気はもっと嫌いだ。昨日学校行って今日サボればよかったな。僕は後悔しながらのそのそと着替える。

 

 手すりにつかまって慎重に階段を下りる。身も心も怠すぎて、いまにも膝から崩れ落ちそうだ。前髪で覆われた右目はほとんど閉じかかっている。面倒な寝ぐせがないのがせめてもの救いだ。

 

残りの身支度を済ませてから、家を出る直前にパンをかじる。甘ったるいクリームが舌に触れて吐きそうになる。きっと低気圧のせいだ。僕は残りを袋に入れて名前を書いて冷蔵庫にしまった。

 

 三日ぶりの教室はまるで地獄みたいだ。好き勝手に垂れ流される声は関係ない人間からしたらやかましい雑音にほかならない。耳がどうにかなりそうだ。僕は自分の席につくと先生が静かにさせるまで机に突っ伏して心を無にした。

 

 クラスメイトの話し声がちらほらと耳に入る。喧騒の中でわざわざ声をひそめているのにやけに際立って聞こえるのは、どうやら話題が僕のことらしいからだ。久しぶりに見た、とか、あんなのいたっけ、とか。それだけならまだゲームのレアモンスターの話だと思って聞き流せる。けれど『女男(おんなおとこ)』という言葉がどうも僕を表している気がしてならないのだ。いや、実際に僕のことだろう。僕がまだ真面目に学校に毎日通っていたころ、陰ではそんなふうによく呼ばれていた。その名残が、いまも治りかけの傷跡みたいにこの場所に潜んでいて、ときおりこうしてうずいているんだろう。

 

 朝のホームルームが始まると、担任の佐野先生はプリントを回し始めた。いじめに関するアンケートだという。なにか気になることや知っていることがあれば記入するという方式だ。とくになにもなければ「特になし」と書けばいいらしい。僕はなにか書いたほうがいいのかやや迷ったが、結局白紙で提出した。

 

やっぱり起きていると聞きたくないことまで聞こえてくる。僕はいっそのこと完全に眠ってしまおうと考え、顔を伏せて腕で囲った。ネットで見た副交感神経を優位にする呼吸というのを実践してみる。ゆっくり吸って、すこし息をとめて、またゆっくり吐く。繰り返していると、たしかに体の緊張がほぐれてきた。どうでもいい雑音も意識しなくなった。深い海の底にいるみたいだ。だけど僕は大きな揺れによって海底から引き上げられた。何人かの男子がこちらを向いている。どうやら僕の机にぶつかったらしい。いや、多分わざとぶつかってきた。ニタニタと笑みを浮かべて談笑している。

 

聞こえないように舌打ちをして、姿勢を戻した。それから呼吸を落ち着けて、僕は再び眠る体制に入った。

 

 放課後、佐野先生に職員室に呼び出された。理由はわかっている。僕はたまりにたまった宿題を抱えて職員室に赴いた。先生に怒られる前に宿題を提出すると、存外気にも留めていない様子で受け取ってくれた。さすがに怒られるのかと覚悟していたから拍子抜けした。そんなことより、と佐野先生は本題を切りだした。

 

「深井君さ、なんか学校で嫌なこととかない? 誰かに変なことされてるとか」

 

「いえ、いまはとくには……。どうしてですか?」

 

 遠回しな言い回しだが、先生がききたいのは「いじめられてないか?」ということだろう。そもそも学校に来ないんで大丈夫です、という返答が頭に浮かんだがそれはやめた。職員室でそんなことを言うのはケンカを売っているのも同然だろう。

 

「今朝のアンケートで深井君のことがすこし書かれててね。ちょっかいをかけてる子がいるって。あんまり学校に来なくて心配だ、とも。深井君が休みがちな理由がその辺にあったら……と思ったんだけど」

 

 そういえば、と今朝のことを思い返す。親切な人がいるみたいだ。誰かわかるなら会ってお礼をしたいけれど、用紙には名前の記入欄がなかった。

 

「だいじょうぶです。気にしてないので」

 

 ちいさいころからからかわれやすいタチだったから、いまさら気に病んだりしない。原因もわかっている。僕の容姿が女の子みたいだからだ。表情は弱々しくて、背が低く手足は細い。声変わりはずいぶん前に済んだのに幼さが残っているし、喉仏も出ていない。おまけに髪を伸ばしている。男子用の制服じゃなきゃ女の子と間違われても無理はない。そんなことずっと前から知っていたし、とっくに受け入れている。母さんにそう教わってきたから。

 

話を大きくしたくないから、「ご心配ありがとうございます」とお礼だけして強引に職員室から脱出した。

 

 ドアの前で、入ってくる人とぶつかった。反射的に相手を見ると、ドラマに出てくる裏社会の人かってくらい人相の悪い巨体がこちらを睨んでいた。最悪だ。生徒指導の郷原(ごうはら)先生だ。捕まったらめちゃくちゃに怒鳴られる。怒りの沸点が低いせいで「パワ原」と呼ばれているのを耳にするほどだ。僕はひとこと謝ってすぐに退散しようとした。

 

「前も見えんなら切れよその髪」

 

 郷原先生はいやみったらしく言い放った。用事があるのか、「なめてんのか」と吐き残して職員室に入っていった。それ以上はなにも起こらなかった。急に速まる鼓動をどうすることもできず、逃げるように自転車を漕いだ。

 

 家に帰りつく頃には空はオレンジ色に染まっていて、夕食を食べる気力もなくなっていた。僕は母に夕食はいらない旨をメールすると、シャワーだけ済ませてベッドに沈みこんだ。

 

 土日の二日間をただ眠って過ごした。どうも疲れが溜まっているみたいだ。人魚の水槽に謎の少女。オタクと細長い知り合いができた。担任に呼び出しを食らって、ほかの先生に怒られた。想定外の出来事ばかりだ。教科書のまだ読んでいないページくらい情報量が多い。ひたすら脳を休めた。たまに目が覚めると、スマホをちょっといじってまた寝た。どうせ通知なんてないし。

 

何度も同じ夢を見た。クジラの夢だ。遠い空を巨大なクジラが悠然と泳いでいる。むなびれを羽のようにゆっくりと羽ばたかせ、水平線のむこうへとすすんでいく。僕はただそれを眺めていた。クジラがみんな遠くへ行ってしまうと、僕は海へ身を投げた。手足につけられたおもりに引っ張られてどんどん沈んでいく。呼吸ができなくなって気を失うと、夢から覚めた。

 

 

 

 週明け、僕はさっそく水族館へ行った。謎を抱えたまま三日もよく行かなかったものだと我ながら衝撃だ。

 

僕はまっすぐに例の部屋を目指したが、鍵がかかっている。開いていないならしかたがない。僕は一度その場を離れ、以前のように普通に館内を見て回ることにした。

 

水槽から透ける光がいつもより弱い。そう言えば今日は曇りだった。この時間なら屋上が解放されている。僕は気ままに泳ぐイルカを水上から見たみたいと思った。エスカレーターに運ばれながら、視線を真上に向ける。シャチやクジラの骨格模型がぶら下げられていた。

 

長く太い骨が組み合わされたそれは、いつ見てもまるで怪獣みたいだ。本物を見たことはないが、これがさらに筋肉や皮膚を着こんでいるのだから、生きているのはもっと大きいんだろう。この水族館には生きたシャチやクジラはいなくて、写真で眺めるばかりだ。

 

いくら肉食だとはいえ、あの白黒模様の下がこんなにもあからさまに狂暴な形だとは思いもよらない。イルカの骨は見たことないけど、同じ哺乳類だからやっぱりこんな強そうな骨格なんだろうな。たしかイルカとクジラの違いは大きさだけだとも言う。そうなると、すこし裏切られたような気分になる。

 

外に出ると、通路の外側に崖のようなデザインの壁がせり立っていて、そこには海鳥のオブジェや生態を解説したパネルがはめこまれている。壁は触れるとごつごつとしていて、本物の崖から切り出した岩でできているらしかった。そういう説明のパネルもある。

 

岩の背の低いところから、眼下に広がる海が一望できる。真っ白い砂浜と、ところどころにテトラポットの道が伸びている。さらに向こうには港があるのか、小型船がちらほらと泊まっている。浜辺は夏休みには海水浴や潮干狩り体験ができるのだが、ちいさいころに溺れかけて以来足を踏み入れていない。

 

僕は反対側の人工の海に目をやった。三匹のイルカが楽しそうに泳いでいる。加速したり、回転したり、急に潜っては浮いてきたり、ただ気ままに遊んでいるという印象だ。

 

生まれ変わったら泳げる動物になりたいと、このところよく思う。人間みたいに練習しないとダメなんじゃなく、最初から水の世界で生活しているやつがいい。一度でいいから、彼らの見ている景色とおなじものを目にしたい。自分の思うがままに泳いでみたい。こうしていつもイルカやクラゲに惹かれるのは、そういう憧れがあるからだろう。

 

順路に沿って歩いていると、岩陰で白っぽい毛のようなものが風に煽られていた。この屋上にはめったに来ないから、それが異質なものとは気づかなかった。なにかそういう生き物のはく製みたいなものかと思って近づくと、見覚えのある細長い男が死にそうな顔でうずくまっていた。

 

「おうお前か。久しぶりだな」

 

「あ、お久しぶりです。大丈夫ですか? しんどそうですけど」

 

「大丈夫じゃねえから、お前、もうちょい左にずれてくれ。そう、そこだ。そこに突っ立ってろ」

 

 神戸さんはかすれた声で言った。日差しがダメなんだという。

 

「具合が悪いなら医務室に行った方がいいんじゃ……」

 

「ああ、そういうんじゃない。嫌いなんだよ直射日光が」

 

「今日曇ってますけど……」

 

「知らねえよ。夜じゃなきゃぜんぶ同じだこんなもん」

 

 じゃあなんで日中の屋上にいるんだろう。しかもジャケット姿じゃないから、多分プライベートだ。そんな疑問は首からカメラをさげた後藤さんの登場とともに解決された。

 

「いやあ待たせてすまなんだ神戸氏。イルカの可愛さに免じてくだされ」

 

「免じねえよ。そこの売店でアイスコーヒー買ってこいよ」

 

 神戸さんはポケットからドクロ柄の巾着袋を出し投げる。独特の金属っぽい音から、小銭入れにしているらしいことがわかった。後藤さんはやれやれといった面持ちでそれをキャッチしたところで、僕に気づいた。

 

「おお。これは深井氏、奇遇ですな。深井氏もなにか飲みますかな? 神戸氏の奢りですぞ」

 

 そういわれると喉が渇いてきた気がするけど、僕は遠慮した。その神戸さんがものすごい剣幕で視線を送りつけているからだ。人の財布で勝手なことするんじゃねえ。いまにもそんな声が聞こえそうだ。後藤さんは結局アイスコーヒーを二杯買ってきた。両方神戸さんが飲むことになった。

 

 ふたりのややうしろについて歩きながら、再び岩の隙間から外を眺めると、砂浜の真ん中に人影のようなものが見えた。いまはまだ海開きの時期ではないから、勝手に海へは出られないはずだ。神戸さんの言っていたことを思い出す。人魚の部屋のさらに奥には外に出る扉がある。

 

「あの、いま人魚の部屋ってあいてますか?」

 

「いや、しまってるはずだ。それがどうした」

 

「そこの砂浜に人影が。たしかまだ自由に入れる時期じゃなかったとおもうんですけど……」

 

 僕の指した方の岩陰から、神戸さんが覗きこむ。それにならう後藤さん。二人はおなじように疑問の色を浮かべた。

 

「時期の問題じゃねえ。あそこはそもそも観客用のビーチじゃねえよ」

 

「小生の目に狂いがなければあれは少女に見えますな。深井氏が以前言っていた女の子では?」

 

 そう指摘されて僕は岩から身を乗り出した。視力に自信はないけれど、全体の輪郭と長い髪はまだ記憶の新しい部分にあるのとおなじに見える。

 

「鍵取ってくる。お前ら先に行ってろ」

 

 そう言い残して神戸さんは青い顔のまま駆けていった。数メートルおきに足がもつれてよろけているが大丈夫だろうか。両手のコーヒーだけは手放そうとしない。目くばせすると、後藤さんは力強く頷いた。心配しなくていいみたいだから、僕らも人魚の部屋へ急いだ。道中、走りながらなのに後藤さんは思いのほかよくしゃべった。体力のない僕はとりあえず相槌をうつので精一杯だった。例の謎の少女の容姿や性格の妄想ばかりだったから具体的な返事はしなくてよかったと思う。

 

 走りながら、髪が乱れていないかとか、そんなことがしつこく頭をよぎる。母が身だしなみにうるさいせいもあるが、髪で顔を覆っていないと落ち着かないのだ。本来館内では走るのが禁止なのを言い訳に、ほどほどのスピードで僕は先を急いだ。

 

 近道を知っているのか、神戸さんはすでに到着していた。扉は開放されているが、周囲の床にコーヒーがぶちまけられている。最後の力を振り絞って開錠し、そのまま力尽きたのだろう。

 

神戸さんは刑事ドラマさながらに叫び、鍵を放り投げなげた。

 

「私はもう無理だ。ユウ、お前が行け!」

 

謎の少女と対峙したのは僕だけだ。カッコよく返事をする余裕もスマートにキャッチする運動神経もないが、僕は頷いて若干速度をあげた。鍵は頭頂部で受け取った。

 

「後藤! お前はやめとけ!」

 

 突然の待機命令に後藤さんは発音しにくい奇声をあげ目を丸くする。何事かと僕は振り返った。

 

「女にお前みたいなオタク会わせたら事案になる」

 

 神戸さんはいたって真面目な目をしていた。後藤さんは天を仰ぎ遠い目をしている。過去になにかあったのだろうか。それをきくのはまた今度にしよう。僕は向き直って人魚の水槽の前を横切った。

 

 薄気味悪い通路の先に、鉄扉が立ちはだかる。鍵を開け、身体全体で押す。四角い鉄の縁取りいっぱいに、砂浜と海が現れた。空は厚い雲に覆われ、光の届かない海は死んだように凪いでいた。だけど暗い屋内にいた反動で眩しく見えて、僕は思わず顔をしかめた。

 

 味気ない景色の真ん中に、彼女はいた。奇麗だ。というのがまず浮かんだ。女の子としてではなく、そこにある自然のひとつとして、彼女は美しかった。色彩を欠いた風景のなかでただひとり群青に色づいた姿は、静かに僕を魅了する。

 

「こないだの……」僕に気づいた彼女が問う。

 

「うん。あのときはごめんね、びっくりさせちゃって」

 

「ううん。わたしこそ、急に逃げてごめんなさい」

 

 僕が首を横に振り微笑むと、彼女もすこし頬を緩めた。

 

 風が吹く。髪がふわりと浮いた。僕はとっさに、前髪を押さえつけた。彼女もまた、僕と鏡写しの仕草を見せた。それがなんだかおかしくって、僕らは笑った。

 

「ねえ、きみ、名前は?」

 

「イサ。あなたは?」

 

「ユウ。よろしくね」

 

 驚くほど自然に、僕は名前をきいていた。彼女も僕を怪しんでいる様子はなく、柔らかな表情をしている。座ろっか。彼女はそう言って近くの大きな岩に腰かけた。僕もつられて体をあずけた。

 

「ここ、よく来るの?」と僕

 

「うん。いつもここにいるよ」とイサ

 

海面がかすかに浮き立つ。さざ波の音色が響く。どこか寂しい雰囲気に当てられたからか、僕は彼女のことをもっと知りたいと思った。だけどなにをきこうか。考えているうちに、イサが質問を返した。

 

「ユウは、どうしてここにいるの?」

 

「うーん、なんでだろう」

 

 イサの言う「ここ」が、はたして砂浜なのか水族館なのか。おそらくは前者だけれど、そこに僕がいる理由はどっちも同じだ。

 

「ここにいたいからかな」

 

 ここ以外に、いたい場所なんてないのだ。学校にも家にもいたくない。カラオケもショッピングモールもゲームセンターも、誰がいるのかわかったもんじゃない。ここならきっと誰もいない。そんな目論見で通いはじめた。予想通り、学校をサボって水族館に来る奴なんて他になかった。クルーにも咎められないのをいいことに、年パスを買った。もともと海洋生物に興味や憧れはあった。イルカはいつ見てもかわいいし、クラゲのコーナーは何度見ても飽きない。だけどそれだけを純粋な動機とは言い切れない。

 

ここにいたい。けれどそれ以上に、ここにしかいたくないのだ。ひとりになると、ひとりになれるのとでは、まったく意味が違うのだ。

 

「一緒にいた人は? おともだち?」

 

「一緒にいた人?」

 

「大きい人と、細長い人。ちょっと怖い感じの」

 

 後藤さんと神戸さんだ。どうやらあの日水槽の部屋で逃げたのは、僕じゃなくて後ろの二人から身の危険を案じたらしい。友達かどうかと尋ねられると微妙なラインだ。いい人たちだし面白いが、友達だなんて名乗っていいのだろうか。

 

「だいじょうぶ。変な人だけど怪しい人じゃないよ」

 

「そうなんだ」

 

「うん」

 

なにか呟いたのか、彼女の唇が形を変えた。ちいさな声を、テトラポットが波を砕く音が隠した。ゆるく弧を描く口角と、細まったまぶた。そこから流れる上下のまつ毛のが、そっと重なる。もっと話したい。そう思って、僕は聞き返そうとした。その瞬間、大声で僕の名前を叫ぶ声が響く。後藤さんだ。振り返ると、手を振る大きなオタクと頭を抱える骨みたいな長髪がいた。前言撤回、あの様相の知り合いとなると怪しさ全開だ。二人には失礼だけれど。やっぱり怪しいアレじゃないことを釈明したほうがいいかもしれない。

 

「閉館の時間ですぞー!」

 

 後藤さんにそう言われて、ようやく日が傾きかけていることに気がついた。水族館が閉まると僕たちは砂浜から出られなくなる。遠くのほうに港が見えるけれど、砂浜から直接は行けず、海を泳がないといけない。しかもかなりの距離がある。

 

じゃあ、と岩から立ち上がる。ねえ、と彼女が声をかける。

 

「明日もここに来てくれる?」

 

「うん。明後日も、その次の日も、ここに来ていい?」

 

「うれしい。いっぱい、お話きかせて」

 

斜陽に照らされて、彼女の頬が赤く染まる。名残惜しいけれど別れを告げて、後藤さんたちの方へ向かう。そういえば、彼女はどこへ行くのだろう。僕は水族館からここに来たから、館内を経由して帰ることになる。けれど彼女がついてくる様子はない。気になって振り返ると、彼女の姿はどこにもなかった。いつの間にか寄せてきた波が、僕たちのいた岩を飲みこんだ。

 

 

 

三人で話をしながら、水族館を後にした。神戸さんは後藤さんが不審なのがいけないと言って聞かない。後藤さんはどういう心境なのか照れくさそうに頭をかいている。僕は犯罪者っぽさなら神戸さんのほうが強いなと思ったが胸にしまっておいた。

 

 

 

 玄関を開けると、母の靴が丁寧に並べてあった。台所の方から鼻歌も聴こえる。僕は学校をサボったことがばれないよう、そそくさと部屋に逃げ込んだ。

 

 下手にリビングに出て母さんと会話を交わしてボロが出るといけない。母はしょっちゅう学校でのことをきいてくる。まさかサボりまくっているとは言えず、いつもそれらしい話をつくっている。もちろんちゃんと学校に行っている日だってある。けれどたいていは話すようなことはないので当たり障りのないことを話す。

 

 母はまだ夕飯をつくっている最中だろうから、今のうちに宿題を終わらせとこう。たまにしか登校しないせいで、どっさり宿題をもらって、どっさり先生に提出する、という互いに面倒な図式が成り立ってしまっている。申し訳ないなあと思いつつ、やっぱりサボってしまう。それでも退学せずにこんな中途半端なことをしているのは、母が大学に行けとうるさいからだ。高校もろくに行かない奴が大学に毎日通うかなんて想像に難くないけれど、この家を出る口実にはなるだろう。環境が変われば僕も改心するかもしれないし。宿題をちゃんとしているのも、成績を落とさないためだ。こう見えてテスト期間だけはサボったことがない。実は成績も良い方だ。いわばそれが最後の砦だ。これを崩してしまうと、いよいよ僕ば学校からも母からも総攻撃を受けるだろう。最終防衛線を死守するべく、僕はヘッドホンを装着してプリントをひろげた。

 

 しばらくして、母の呼ぶ声でリビングに出る。食卓には香ばしく焼き目のついた塩サバが並んでいた。水族館から帰ってきて焼き魚を食べるのはなんだか悪趣味な気がする。

 

 母の気が少しでも僕のことから逸れればと、テレビをつけた。バラエティー番組で、生き物の動画特集をやっていた。

 

二人で向かい合って話をしながら、サバの小骨をとる。父さんはいない。去年の冬に離婚した。もともと母は多少過保護気味だ。だけど、父がいなくなってから拍車がかかった。それがだんだん煩わしく思えてきている。これが世に言う反抗期だろうか。母の手元でビール缶が涼しげな音を鳴らす。

 

「日本ってシャチいるのねえ」

 

「みたいだね。知床とか」

 

「でもほら、日本海に出没って」

 

「へえ」

 

「シャチって怖いんだっけ?」

 

「怖いと思うよ」

 

「サメとどっちが怖いのかしら」

 

「シャチじゃない? クジラ襲うらしいし」

 

 なんでもない雑談。それさえ面倒に感じる。海洋生物を見ると、イサのことを思い出す。ずっと頭の中はそのことでいっぱいだ。ほかのことなんて気にしていられない。

 

「ところでユウ、学校はどう?」

 

「……まあまあだよ」

 

 ふと蘇る、郷原先生の言葉と目つき。いまになって、わざとぶつかってきたんじゃないかと疑わしくなる。右目のあたりがかすかに痛む。忘れよう。いちいち気にしていられない。僕は夕食を平らげると、食器を片付けて自室に戻った。それからお風呂に入って、宿題の続きを済ませて、歯を磨いて、明日の時間割を確認してサボる決意を固めて寝た。鏡が目に入らないよう気をつけた。

 

 

 

それからというもの、僕は水族館に足繫く通った。いつもなら「さすがにそろそろ学校に行っとかないとマズいぞ」というブレーキがかかるのだが、最近調子がおかしいらしい。神戸さんを見つけてわがままを言って、砂浜までの道を開けてもらった。その度に小言を言われるようになった。あるときには「キャバ嬢に貢ぐオッサンみたいだ」とまで吐き捨てられた。まったくひどい言い草だ。後藤さんはなにやらニヤニヤと僕を見つめるようになった。いい人のはずなんだけど、ときたま何かされやしないかと不安になる。青春はよいですなあ、なんてしばしば呟いている。

 

イサと話すことは、大抵が他愛もない話だ。ほんとうにくだらないことばかりを話した。時々、後藤さんと神戸さんの話もした。息ぴったりな二人の応酬を聞かせると、彼女は涙が出るくらい笑った。僕はいつしかイサに笑ってほしくって、彼女のために話すことばかり探していた。

 

「いいなあ。うらやましい」

 

 あるときぽつりと、イサはそう漏らした。

 

 彼女は遠い海の向こうを見ているみたいだった。そういえば、ほかの誰かといるところを見たことがない。ここに来るには人魚の部屋を経由しなければいけないから、当たり前と言えばそうだ。だけどそうしたら、彼女はどこから来ているのだろう。いつも僕はイサと別れてひとり水族館へ戻るけど、彼女はどこへ帰るのだろう。

 

「イサは、どこからから来てるの?」

 

「どこからって?」

 

「僕が帰るとき、いつもここに残ってるから」

 

「わたしはずっとここにいるよ」

 

 いまいち要領を得ない返事に首をひねった。彼女はくすくすと笑っている。その姿を見ていると、なんだか僕の疑問なんてどうでもいいと思えた。

 

「ユウはさ、いつも誰かといっしょだよね。うらやましい」

 

 言われてふと思い返す。そう言えばたしかに、ひとりになりに来たはずの僕は、いつも誰かといっしょにいる。神戸さんに後藤さん、そしてイサ。ほんのすこし前の僕に教えてもきっと信じないくらいに、僕はひとりじゃなくなっていて、それが心地よくなっていた。

 

「わたしは、ひとりだから」

 

 イサが呟く。ときおり彼女はこうやって寂しそうな顔をする。それを見ていると胸が痛んだ。既視感があった。いつか学校のトイレの鏡に映った自分と、同じ目をしている。僕はイサがそんな顔をするのがつらくてたまらなくなっていた。

 

「イサだって、僕といっしょにいるじゃない」

 

 そう言うと、彼女はキョトンと目を丸くした。「ほんとうに?」と彼女がきくから、「ほんとうに」と僕は返した。すると彼女の目は月が欠けるみたいにすうっと細まって、仔猫のヒゲのようなシワをよせた。

 

「そうだね」

 

イサは屈託のない笑みを浮べた。群青の髪を揺らすあどけない表情は、海に反射して浮かぶ太陽みたいに眩しかった。

 

 

 

 起きがけに危機感が仕事をしたため、久しぶりに制服に袖を通した。実に丸一週間ぶりの登校だ。母が珍しく平日に休みで、朝からリビングにいるからというのもある。さすがにバッチリ目を覚ましてニュース番組を見ている母の眼をごまかして水族館に行くことはできない。制服で家さえ出ればそこからは自由ではあるが、さすがに校章を胸に携え遊びに行くのはまずいだろう。

 

 わざとらしく学校に行く準備をこしらえて、リビングに移動する。毛先がゆるくひろがっているけど、まあいいや。このくらいなら寝ぐせだとは思わないだろう。寝ぐせだと思われたからどうだということもないのだけれど。

 

「あらユウおはよう。もう学校?」

 

「おはよう。もうちょっとしたらね」

 

「なんかいつもとちがうわね。毛先アイロンあてた?」

 

「そう? 低気圧のせいじゃない?」

 

 親特有のどうでもいい会話を盛り上げないように流す。

 

「そろそろテスト期間じゃないの?」

 

「うん」

 

「前回学年で何位だっけ?」

 

「どうだったかな。二十位よりは上だったはず」

 

「そっか。そろそろ十番以内入れるといいわね。もうひとつ高いランクの大学狙いたいでしょ」

 

「そうだね。頑張るよ」

 

「頑張りなさいね。ユウったら国語苦手でしょ?」

 

 朝からテストの話とかしないでくれよ。ただでさえ気をつかっているのに。お腹が痛くなりそうだ。だいたい、国語が苦手とか言った覚えない。ほかと比べたら低めなだけで、平均点を割ったことはない。それに、しれっと自分が落ちた大学に行かせようとするのも勘弁してくれ。ほらテレビに猫が映ってる。母さんの好きな手足の短い猫。もういいから猫の話でもしといてくれ。次々と湧いてくる不満を、冷たい麦茶で流しこんだ。

 

 重たいカバンを前カゴにのせ、ペダルを踏む。うっかり水族館方面に舵をきってしまいそうになった。ほとんど無意識に通っていたせいだ。なんだか水族館をサボって学校に行っている気分ですらある。習慣というのは本当に凄まじい。

 

 見慣れているべきはずの景色が流れていく。一年前なら毎日見ていたけれど、もう最近になると忘れかけているみたいだ。けれど新鮮な気持ちになったりはしない。いざこうして通ってみると体は覚えているようで、とくに道順を思い出すことなく勝手にハンドルが案内してくれる。歩くときに右足を出したあと、左足を出そうとか考える前に動いているような、あんな感じだ。まるで自動走行車みたいだなと思う。

 

 イルカやクジラもそんな感じなのだろうか。僕はカナヅチだから死に物狂いで泳ぐけれど、彼らはなにも意識せず自然に息継ぎができるのだろうか。わざわざ海で生活しているのに息継ぎが必要だなんて、僕には耐えられない。だけどクジラが溺死する例もあるくらいだから、そろそろ苦しいから息継ぎしよう、とか考えているのだろうか。なんて疑問に気をとられつつも、自転車はしっかり赤信号で止まったり散歩中の犬を避けたりする。

 

 学校に着くなり、僕は防御姿勢をとった。ときに机に擬態し、ときに人混みに身を隠した。それは弱肉強食の大海原を生きるちいさな魚さながらだっただろう。椅子の位置や座る角度を数センチ単位で調整し、自然に黒板を向きつつ先生と目が合わないようにした。日付とおなじ出席番号の生徒に答えさせる先生もいるが、僕に白羽の矢が向くことはない。今月は土曜だし、来月のその頃はもう夏休みだ。ちなみに僕の出席番号は素数だから何月かける何日イコール何番というコンボ技も通用しない。「今月誕生日の人」という範囲攻撃をする先生もごくまれにいるが、だんまりを決めこんでやれば問題ない。こうしてなんとか六回の授業を乗り切った。

 

 けれど、ようやく帰れると胸をなでおろした矢先、佐野先生に呼び出された。掃除時間のことだった。

 

 放課後、廊下に誰もいないことを確認して、生徒指導室の前に立つ。こんなところ誰かに見られたらきっと噂される。生徒指導室はその名の通り、指導という名の説教以外で使用される。というかほかの用途がない。説教専用の個室。生徒にとっては拷問部屋も同義だ。かつて郷原先生から直々に招集をかけられた生徒は、「この戦争から帰ってこれたら、好きな子に告白するんだ」なんて言っていた。そして三時間後、戻ってきたそいつは以降三日ほど感情を失っていたという。告白の結果についての続報は知らない。そんな地獄に呼び出された僕にも当然、無事という未来はない。

 

 覚悟を決めて入室する。失礼します、という声がもう裏返りそうだ。ぼろぼろの机ふたつを挟んで、手前に生徒用の椅子。奥側には佐野先生が座っている。逆光のせいで表情が暗く見える。怒られる、どころの騒ぎではない。廊下中に怒号が響き渡るかもしれない。そうなったら僕は気を失う。なんなら恐怖に耐えかねてショック死まであるぞ。腕組して壁にもたれかかる郷原先生を見てそう思った。

 

 佐野先生に促されて着席する。なにか一つでも粗相をしでかしたら命はないだろう。推薦受験の面接でもここまで緊張はしなかった。郷原先生の視線が痛いほど刺さっている。佐野先生は穏やかな口調ではじめた。

 

「来週からテスト二週間前だからぼちぼち学校来なよ、ってお話ね」

 

「はい。すみません」

 

「ぶっちゃけシャレにならないくらい休んでる自覚は?」

 

「あります」

 

「じゃあいい」

 

 驚くほどすんなりと話を終える佐野先生。一瞬、なにが起こったのかわからなかった。

 

「まあ深井君テスト期間はいつもちゃんと来てるし成績も良い方だから、あんましとやかく言わなくてもいい気はするけどね」

 

 佐野先生はなにやらプリントと僕の顔を交互に見ながらそう話す。折れ線グラフと数字。どうやら僕の成績表らしかった。これにて話はおしまい、という感じに彼はそれをファイルにしまった。けれどそこへ郷原先生が割って入ってきた。

 

「いいわけないでしょう」

 

 眉間に深々と縦線を刻みこんで、僕を見下ろしている。この先生はいつもそうだ。生徒を叱るとき、必ず上から見下ろす位置をとる。しかも僕は座っていて郷原先生は立っている。そのせいでいつもより体が大きく見える。威圧的というほかない。僕は固唾を呑むこともままならなかった。

 

「テストだけ受けて成績いいから授業はサボる? 学校なめてんのかお前」

 

 正しい。百パーセント僕が悪い。だけどその通り過ぎて、なにも言えない。謝罪も反省の意も火に油を注ぐだけとしか思えない。

 

「それと、なんだその髪。男のくせに。お前この間ぶつかったよな? 言わなかったか? 前見れんなら切れって。え? なあ、おい。お前だけだ男子でそんな髪伸ばしてんのは。男子は短髪、生徒手帳に載ってるの読んだことないのか? たまに学校に来たと思ったら校則も守れんのか。おい、なに黙ってんだやっぱお前なめてんだろ。あ?」

 

郷原先生が骨ばった手を伸ばす。まっすぐ僕の右目に向けて。長い前髪で見えないせいで反応が遅れた。太い指先が前髪を押しのけ、右の眉に触れた。僕は反射的に飛び退いた。椅子の倒れる音が、棚に並んだ資料の隙間に消えた。窓の向こうから運動部の掛け声が聞こえる。白球を打つ高い音。セミが一匹めちゃくちゃに喚きたてて、すぐさま嘘みたいに口をつぐんだ。時計が苛ついたように舌打ちする。骨盤から背筋を抜けて頭頂部にまで悪寒が走る。目頭がじんと熱くなる。呼吸がだんだん浅くなるのを感じる。心臓の音がうるさい。なにもされていないのに、右目がズキズキと痛む。

 

「触らないで、ください」

 

 乾いた呼吸音が鳴る。僕のものだ。手足の震えは止まらないのに、全身が爪の端から毛先まで熱い。血管という血管が脈打って、内臓が叩かれているみたいに気持ち悪い。右目を両手で押さえて、ぎっ、と歯を食いしばった。あろうことか僕は教師相手に威嚇するような行動をとっていた。

 

「お前マジ人をなめんてんじゃねえぞいい加減にしとけよ!」

 

 雷鳴のような音とともに、机が蹴り飛ばされた。思わず身をすくめる。郷原先生が血相を変えて怒号を張りあげる。僕はもうこのまま殴り倒される覚悟と、それでも右目を隠す意地を固めた。力任せに壁を凹ませる拳を、その半分くらいしかなさそうな佐野先生の細腕が掴んだ。

 

「まあまあ。ところで郷原先生、そろそろ部活動に行かれては? 陸上部も今月末大会でしょう」

 

「はあ? いまはそれどころじゃ」

 

「僕のクラスの生徒です。僕が叱っておきますので」

 

 落ち着いた、はっきりとした口調で言う。怒り心頭の郷原先生をまっすぐ見据える。堂々とした態度に、恐怖という感情がないのかと心配になる。埒が明かないと判断したのか、郷原先生は「なめてんじゃねえぞ」と吐き捨てて出ていった。

 

「ああ怖かった。勝手についてきといてこれだよ。チンピラと変わんないなあ、まったく」

 

 佐野先生は机と椅子を元に戻しながらため息を吐いた。

 

「あの、すみません、でした……」

 

「いいよ。さすがにあれは教師としてどうかと思う。やりすぎだよ。君も悪いけど」

 

 先生は壁に残った拳骨の跡をスマホで写真に収める。それからてきとうな裏紙に『モノを大切に!』と書いて、穴を塞ぐようにテープで貼りつけた。落ち着いて、まずは座りなよ。先生の声のままに、僕は椅子にへたれこんだ。髪を伝う汗が、ぽたぽたと床にシミをつくる。それを数えながら、ゆっくりと息を整えた。

 

「なにか理由あるんでしょ。一年のときはちゃんと毎日来てたもんね。前髪もピンでとめてたし」

 

 僕が学校に来なくなったのは去年の三学期、一月からだ。そのときも担任は佐野先生だった。だからだろう、ひとりの生徒にこんなにも構うのは。受け持ちの生徒が突然来なくなったら心配なのは、教師として当然なのかもしれない。ただただ申し訳なかった。だけど僕は学校をサボっていることを母に隠している。血のつながった家族にまで秘密にしているのに、その理由を先生に打ち明けるだなんて、無理な話だ。のぼせあがった頭が冷えてきたからか、視界ぼんやりとしてきた。身体の力が抜けてきて、目を開けられなくなった。

 

「学校でなにかあった?」

 

うつむいたまま、黙って首を振った。

 

「じゃあ、家庭でなにか」

 

 頷いたのか、うなだれたのか、自分でもわからない。ボロ椅子が、ぎし、とうめく。

 

「そっか。じゃあ無理にはきかない」

 

 佐野先生は立ち上がったのか、足音が窓の方へ向かう。傾きかけた夏の日が生徒指導室に鋭く射しこむ。伸びた影が僕を守るように覆いかぶさる。グラウンドで練習をしている運動部員が足をとめて挨拶する声が聞こえてきた。直後に郷原先生の怒鳴り声と、挨拶のやり直しが繰り返される。あついなあ、と呟いた。カーテンを閉めたのだろう、足元がすこし暗くなった。

 

「こんな言い方はよくないかもしれないけど、サボってるのを怒る気はないよ。止めるつもりもね。そもそも高校って義務教育じゃないし。」

 

 淡々と言葉が並べられる。けれど冷たい感じは不思議としなかった。郷原先生なら「嫌なら辞めちまえ」と突き飛ばすように吐き捨てるだろう。ほかの先生でもきっとそうだ。そしてきっと怒るのだ。だけど佐野先生の言葉は、風のない日の海みたいに穏やかだった。

 

「居たくもない場所に居るのはしんどいでしょ。そういう子、多いんだよね。親に言われて学校通ってる、とか」

 

 自分もそうだった、と先生は笑う。ずっと本の世界に逃げていたから、あんなの来ていないのと一緒だった、と。大声を張り上げているわけでもマイクを通しているでもないのに、すんなりと言葉が耳に入る。

 

「大事なのはね、自分で決めることだよ。誰かになにか言われたりして、いろいろ考えたりすると思う。たしかにそういうのも大事。だけどね、最後に決断するのは自分自身なんだよ」

 

 先生は正面に腰かけ、やや前のめりになって、机に身を乗せた。顔をあげると、同じ高さに先生の目があって驚いた。肩を跳ね上げる僕を見て、先生は満足そうに目を細めた。

 

「かといって、ひとの話無視していいわけじゃないからね。僕それで昔友達の忠告無視ってひとり雪山で遭難したし」

 

 さ、帰ろうか、と先生が生徒指導室を出る。僕もそれに続いた。最後に先生はチョコをくれた。糖分は地球を救うのだという。あまりチョコは食べないけれど、突き返しもできないのでもらった。校門を抜けてからチョコを口に入れて自転車を走らせた。ほろ苦さとかすかな甘みが、ゆっくりと溶けていく。家までの時間が、いつもよりちょっとだけはやく感じた。

 

 

 

 玄関で靴を脱いで、直接リビングに移動した。母がいる日なら、ぼちぼち夕食ができあがる時間だ。だけど食卓にあるのは缶ビールの残骸とできあがった母だった。

 

「おかえり。遅かったわね」

 

「委員会が長引いてね」

 

 嘘だ。一応飼育委員には入っているけど活動なんて月に一回の会議だけだ。生物室の管理は生物の先生がしているし。でも説教食らって遅くなっただなんて口が裂けても言えない。

 

「ばんごはんねえ、新しいパン屋さんできたからそこでいっぱい買ってきたのよ。なんかいろいろあるからね」

 

「ん」

 

 短く返して袋を漁る。僕用のものと思われる菓子パンがどっさりだ。甘いのが好きだったころでもこんなには食べなかった。これ全部僕のか? 病気まっしぐらだぞ。甘いやつらに埋もれたベーコンサンドを拾いあげた。いいのあるじゃん。宝物を発掘した気分だ。

 

「へえ、そういうのも食べるんだ。いつのまに?」

 

「食べるよ。わりと前から」

 

「やっぱ男の子ねー。肉食べるよね。いいよお食べ。母さん甘いの食べよっと」

 

 肉食べたら男認定なのかよ。というか女の子でも肉食べるだろ。なんて酔ってる母にツッコんでもしかたないことだ。包みを丁寧にはがしてパンをかじった。

 

「パン美味しいねー」

 

うん。

 

「会社の近くにも新しいパン屋さんできたのよ」

 

よかったね。

 

「そういえばそろそろテストじゃない? 勉強してる?」

 

 してるよ。

 

このくだり、今朝もやった。もしかしてこれ素面か? 母は酔ってるときに成績の話はしない。

 

「だいたいユウさあ、いつになったら彼氏できるわけ? 絶対モテるでしょあたしの子だもん」

 

 うん、やっぱり酔ってる。彼氏なんてできるはずないだろ。むしろ僕が男連れてきて彼氏だって紹介したらいったいどんな顔するつもりなんだ。女の子っぽいのはもういいけれど、息子の性別なんてふつう間違えないだろ。もしかして母のなかでは完全に娘になっていて、さっき男の子ねと言った方が間違いなのかもしれない。母は「娘が欲しかった」としょっちゅう漏らしていた。

 

 物心ついたころから髪が長かった、それが似合うからと母に教えられた。小学生のときは胸元まで伸ばしていた。『女男』と呼ばれはじめて、ようやく自分はおかしいのだと気づいた。

 

 中学に上がるころ、短くしたいと申し出た。母は「それはそれでアリね」と言って、楽しそうに僕の髪を切った。出来上がったのは、女の子らしいショートボブだ。僕の短髪と母の短髪では解釈が違っていた。自分の足の範囲に床屋がなかったから、この髪型を受け入れるしかなかった。『女男』というあだ名は続いた。顔や体つきが男っぽかったら違ったかもしれない。

 

「ていうかユウさあ、なんで目隠してんの? キレイな顔してるのに」

 

 据わった目が僕の前髪に照準を合わせる。不穏な空気を感じる。右を向いて左半分を見せた。

 

「別に。いいじゃんなんでも」

 

「いいからほら、髪あげてみなって。似合うって」

 

「ちょっと、なんだよ」

 

 母が身を乗り出して手を伸ばす。まさか一日に二回もこの流れをやるなんて。パンくらい部屋で食べればよかった。学校でなにを学んできたんだ僕は。ああ、くそ。椅子の滑り止めのせいでうまく立てない。母はとうとう僕の前髪をかきあげた。重そうなまぶたがぱっちりと開き、みるみるうちに青ざめた。

 

「なによ、それ」

 

 痣。充血。見たままだ。

 

「病院は?」

 

「もう行ってない。痛くないし、視力もおかしくないから」

 

「なんで黙ってたの」

 

「なんでって……」

 

 母さんのせいだ、なんてとても言えなかったからだ。去年の冬、酒に酔って怒り狂ったあんたが、父さんを殴ろうとしたからだ。咄嗟に間に入った僕は、そのままビール瓶で顔面を殴られた。まさか本当に殴るとは思わなかったから、勢いよく倒れた。その先に運悪くドアストッパーがあって、目をぶつけた。たしか父は殴られずに済んだと思う。

 

 髪を伸ばすのを強要されてよかったと思ったのはこのとききりだ。邪魔になるからとピンでとめていた前髪を下ろした。そうすると、赤く腫れた右目をすっぽりと隠してくれた。母にはイメチェンだと言っておいた。いいんじゃない、と機嫌よさそうに返事をするだけだった。

 

 しばらく通院しながら学校を休んだ。両親は共働きだったからそのことを知らない。ようやく痛みもなくなって眼帯もとっていいことになった。それからまた、学校に通った。

 

あるとき、体育の授業中に風が吹いた。ピンでとめていない髪は当然巻きあげられた。すぐさま手で隠そうとしたが、遅かった。クラスの女子に見られたのだ。彼女は悲鳴をあげてその場にボールを落とした。僕の目は腫れがひいただけで、充血と痣はくっきりと残っていたのだ。なにごとかと集まる女子グループ。視線が一斉に集中する。目を見たのは彼女一人だ。だけど彼女があまりに怯えるから、僕が悪者だという空気が一気に蔓延した。それから勝手な噂が独り歩きするようになった。僕は学校をサボるようになった。

 

 

 

血の気を失った母の顔が、こんどはどんどん紅潮する。ばん、と激しくテーブルを叩いた。空になったビール缶がバランスを崩して床に落下する。母は大きく利き手を振り上げた。それが僕の顔をひっぱたくことはなかった。酔いが覚めていないせいか、母はよろけて椅子にしがみついた。

 

「二度とその醜い顔見せないでちょうだい」

 

 母は忌々し気に言い放つと、頭を抱えてよろよろとリビングをあとにした。せっかくきれいな顔に生んだのに。なんどもぶつぶつと呟いていた。逃げるようなちいさな背中に、父の姿が重なった。

 

 僕が殴られた数日後、父は家を出ていった。気の弱い人だった。その分、底抜けに優しかった。優しすぎたから、母の過ぎた行動をとめられなかった。両親はときどきケンカした。僕のことを巡ってのことだった。幼いころは、僕が眠ってからだった。けれど、僕が小学校高学年になるころには平気で僕の前で争うようになった。ケンカが成立するのはいつもはじめだけで、すぐに父が言い負かされて叩かれていた。それでも母が瓶を手にしたのはあの一回きりだ。その一回が、離婚の引き金となったのだ。僕は父を守ってやれなかった。

 

 眠る前にお風呂だけ入っておく。そうしないと眠れない。これも母の教育のたまものだ。鏡に裸が映る。丸みを帯びた体のライン。細く長い手足には、筋肉なんてまるでない。保健の教科書なんてあてにならない。生まれそこなったような体つきだ。これで身も心も男なのだ。男女共通のパーツに、女の子のものをあてがったみたいだ。シャワーを頭からかぶった。

 

濡れた髪が束になってしぼみ、隠していた右目があらわになる。薄い皮膚の下に、赤黒い痣がひろがっている。眼球はずっと充血したままだ。まるで呪いにかかったみたいだ。いや、これは本当に呪いだ。とっくにひいたはずの痛みに、いつまでも蝕まれる。目が赤い限り、痣が治らない限り、僕はありもしない痛みに苛まれ続ける。この傷は解けることのない呪いなのだ。

 

まつ毛の隙間から、涙があふれた。ぬぐってもぬぐっても、ぼたぼたと零れ落ちる。とめたくてもとまらない。とめ方なんてわからない。なんで自分は泣いているんだ。痣が酷いからか。傷跡が疼くのか。母の言葉がそんなにもつらかったか。歪んでしまった顔があまりに惨めで情けなくて、どうしたって耐えられなかった。洟をすする音がシャワーの音に流されてくれと、うずくまってただ願った。

 

 

 

 青い色は心を落ち着けるのだという。淡いブルーのフロアに光が揺れるこの水族館は、癒しが具現化したみたいだった。頭上をイルカが回転しながら抜けていく。僕もあんな風に泳げたら、なんていつも思う。

 

 神戸さんは午前のショーの担当しているらしく、終わるまで裏の浜へはいけない。せっかくだし久しぶりにクラゲを見ようと思った。幻想的な迷宮に足を踏み入れる。暗闇の中に、儚げな光が浮いている。波が来れば呑まれて流されていきそうな微かな明かりだ。クラゲはゆったりと漂っている。

 

最近本で読んだ。クラゲに遊泳能力はほとんどないのだという。とくに水槽にいるものは、水流をつくってやらないと沈んでしまう。僕みたいだな。勝手に親近感を覚えた。泳いでいるようで、母のつくった水の流れに身を任せているだけ。自分の意思なんてあるようでなかった。いつまでもこんな髪型をしているのがいい証拠だ。クラゲはなにを思って生きているのだろう。このちいさい水槽の中で漂うのと、ひろい海にいるのとでは、クラゲにとってどう違うのだろう。どっちにしろ流されるだけだから変わらないのかな。そんなこと考えたって、それはそういう生態だからしょうがないのだろう。神戸さんなんかはそう言いそうだ。

 

イルカはどうだろうか。思うがままに泳いでいつイルカたちは、ほんとうに自由なんだろうか。だけど海にいれば天敵に襲われることもある。イルカは脳の感情を司る部分がヒトより大きいらしい。だったら自由と安全を天秤にかけて、案外安心しきっているかもしれない。

 

ぼんやりと水槽を眺めていると、いきなり頭に固い感触がした。びっくりして振り返ると、缶コーヒー片手に神戸さんが立っていた。ショーの邪魔になるからか、髪を結っている。

 

「たまにはほかのとこ見ねえのかよ。ペンギンとかさ、お前好きそうじゃん」

 

「あ、お疲れ様です。ショー、終わったんですね」

 

「ああ。死ぬかと思った」

 

 なにがどうしたら死ぬことがあるんだろう。イルカに体当たりでもされたんだろうか。神戸さんの身体ならそれで骨でも折れかねない。想像したらなんだかおもしろい。

 

「なに笑ってんだよお前。私はイルカに体当たりされて地獄だったんだぞ」

 

 されたんだ。イサに話すネタが決まった。神戸さんにはちょっと悪いけど。

 

「なんでもないです」僕はごまかした。

 

 神戸さんはいつも通りといった手つきで鍵を開けた。

 

「お前ほどほどにしとけよな。ぼちぼちヤベぇぞ」

 

 はい、とこたえてそのまま海にかけていく。砂浜には誰もいない。大声でイサの名前を呼ぶ。遠くで柱のような水飛沫があがる。この海にはクジラでもいるのだろうか。涼しい風が吹いて、ウミネコが鳴く。のどかな景色だ。時間の流れがゆるやかに感じる。もう一度呼ぼうと息を吸いこむと、突然視界が真っ暗になった。聞きなれた声が、だーれだ、と問いかける。

 

「なんだよ、びっくりさせないでよ」

 

 イサは満面の喜色を浮べていた。僕らはいつもの岩場に腰かけた。

 

「ユウってさ、女の子みたいだよね」

 

「うん、よく言われる」

 

「ちっちゃくてかわいい」

 

「それは初めて言われた」

 

 笑うイサの髪が揺れる。濡れているみたいで、いつもより艶やかだった。雫が日光を反射して宝石みたいだ。

 

「イサ、さっきまでなにしてたの?」

 

「泳いでた」

 

「そっか。いいなあ。僕は泳げないから」

 

 静かに海を眺めた。ウミネコが戯れるように舞っている。茶化すように風が肌をくすぐった。肩が触れるか触れないかの距離感がもどかしくてすこし心地いい。昨日のことなんて、最初からなかったみたいだ。

 

 ずっと気になってたことがあるんだけど。彼女は唐突に、僕の顔を覗きこんで言った。

 

「ユウは、どうして目を隠してるの?」

 

「これは……。見せたくないから」

 

「見せたくないの? どうして?」

 

 キレイなお顔なのに、とイサは続けた。なにか言葉を選ぼうとして、唾をのんだ。どう言っていいのかわからない。母と同じ言葉。あのときなんて答えるのが正解だったのだろう。それでも素直に答えるのが怖くって、僕はごまかし方ばかり考えた。だけどイサは純粋にこちらを見つめる。

 

 彼女の瞳は美しかった。群青の虹彩は深く、透き通る水底のようだ。海を凝縮して宝石に閉じこめたら、きっとこんなに奇麗なんだろう。

 

 長い髪に触れるからか、目の周りがむずかゆい。左目をそっと閉じてみる。視界が一気に形を崩した。昨日のことを思い出す。隠しているから、バレたときにつらいのかもしれない。イサにだけ、話してみようと思った。

 

「醜いんだ。傷が治らなくって。酷いんだ、きっと怖いよ」

 

「なんだ、そんなこと」

 

「そんなことだよ。でも嫌なんだ」

 

「そんなことなら、わたしだって」

 

 イサは僕に背を向け、群青の髪をよけた。山脈のように連なり浮いた背骨。それを挟むように、黒い孔が二つ空いている。よほど深いのか穴の奥は見えない。なんとなく、そこから空気が漏れ出ているような気がして不気味だ。

 

「ごめんね隠すつもりはなかったんだけど。わたし、ヒトじゃないの」

 

「ヒトじゃない? どういうこと?」

 

「人魚っていうらしいの。お母さんがそう言われてた」

 

 にわかには信じられなかった。僕の思い描く人魚の姿と彼女は違っていた。イサにははっきりと足がある。だけどその美しい澄んだ声は奪われていない。それに彼女は群青のワンピースみたいなものを身にまとっている。人間と姿形は変わらない。だけど背中に空いた真っ黒い穴が、彼女が異質であることを物語っている。

 

「ちょっといい」

 

 イサは僕の首に手を回し、額と額をくっつけた。緊張とか恥ずかしさで心臓が暴れまわる。発火したみたいに顔面が熱くなる。熱が耳に到達する瞬間、脳内に直接語かけるような声が聞こえた。どう? 聞こえる? 頭蓋骨の内側で声が反響する。脳が痺れるような感覚がして、思わずイサを引きはがした。

 

「うわあなにこれ気持ち悪い」

 

「ひどいなあ。わたしたち、こうやっていつもお話してるのに」

 

「ああ、そっか。クジラとかって、超音波でコミュニケーションとるんだっけ」

 

 クリック音と呼ばれる行動で、海洋哺乳類の一部が発する音だ。水中では視界が悪いうえ、分子の拡散速度が遅いせいで嗅覚も有効ではないらしい。それに比べて海中の音の伝達速度は空気中の四倍だという。まさかそれを人魚もするとは思わないし、まず人魚が哺乳類だというのにびっくりだ。そもそも人魚が実在していることについては、この際不問とする。

 

「お母さんとも、こうやってしゃべってたなあ。透明の壁におでこくっつけて。陸での言葉も、お母さんに教わったっけ」

 

イサは懐かしむように天を仰いだ。人魚。お母さん。その単語で僕は思い出した。イサと初めて会ったとき、彼女が水槽を眺めていたことを。誰もいない、水の中を。そしてその水槽には、人魚と書かれたプレートがある。

 

「じゃあ、あの水槽は……」

 

「うん。お母さんがいた。もういなくなったけど。海ってときどきすごく暑い日が続くでしょう。十回くらい前かな。あの日もすごく暑かった」

 

 イサが言っているのは、夏のことだろう。だとしたら、十年前に彼女の母は亡くなったことになる。神戸さんの言った噂は本当だったんだ。だとしたら大ニュースだ。アザラシどころではない。だからこそ、噂程度で済むよう隠ぺいされたのだろう。

 

「お父さんは?」

 

「知らない。見たことないから。襲われたらしいの、白黒の怖いヤツに。わたしが生まれてすぐだったらしいわ」

 

きっとシャチのことだ。シャチはクジラも襲う。イサの背中の穴が噴気孔ならば、イサもその両親もシャチの獲物の一種になる。彼女は十年間、ひとりでいることになる。この広い海で、帰らない両親をずっと想いながら。

 

「寂しくないの……?」

 

「寂しかったよ。泣いちゃったこともあるかな。だけど、しかたないの。海ってそういうものだし」

 

 自分たちも命を食べて生きている。そうしないと生きていけなのが、この世界だ。イサは達観したように言った。イサの母が、よくそう言って聞かせたらしい。なにをしたって、ほかの命を食べたって、それはその生き物の自由だって。だから、つらいことではないのだと。そしてその分、自分も自由に生きるんだと、イサは決めているらしい。

 

「それにね、今は平気なの。だって、ユウが来てくれるもの」

 

 イサは涙ぐんで笑った。滲んだ瞳は揺らめく海のようだ。

 

 右目を隠し続ける自分が途端に恥ずかしくなった。イサの言うとおり、たかがケガしてるだけのことだ。いつまでこんなことを気にしているのだろう。だけど、言葉で説明するのと、実際にあらわにするのとではまったく違う。傷を見た母の顔が頭から離れない。驚きの中に、恐怖とか侮蔑とかが混ざった表情。だけどイサのとなりにいると、こんな傷、たいしたことないんじゃないかと思える。

 

「ほら、これでおあいこでしょ。目、見せてよ」

 

 イサは期待に目を輝かせている。さっきまでの雰囲気が冗談みたいに、こどもっぽく身を揺らしている。心なしか鼻息も荒い。どれだけ見たいんだよ僕の右目を。これが背中の穴じゃなくてよかったと思うのはさすがに失礼だろうか。見せたくないどころか、見せるほどのものでもないだろと思う。

 

 根負けして前髪に指をかけたところで、手が止まる。昨日、お風呂場の鏡に映った自分の顔が、フラッシュバックする。

 

「ごめんね、やっぱり怖いや」

 

 僕はなんてちいさいんだろうと思う。彼女はこんなにも強いのに、僕はなにをそんなに怯えているんだろう。そんなこと、と言ってのける彼女なら、きっと受け入れてくれるんじゃないだろうか。ほんのちょっと、髪をよけるだけじゃないか。母さんには見られたんだ。誰に見せたって同じじゃあないのか。けれど、やっぱりその一歩がたまらなく怖い。僕はなんて惨めで、弱くて、ちいさいんだろう。

 

「そっか。じゃあまた今度だね」

 

「そうだね」

 

 目を見て声を返せなかった。

 

「僕、そろそろ帰るね」

 

 太陽はまだ高いところにあった。けれど、なんだかいたたまれなくなって、僕は岩場を離れる。足が砂に沈む。うしろめたい気持ちがまとわりついた。

 

「そっか。またね」

 

「またね」

 

 手を振り、イサと別れた。またね。そう言ったのに、次の日は海へ行かなかった。

 

 

 

アラームで目が覚めた。五分過ぎのスヌーズだった。いつもなら二分前に起きるのに。なんど目をこすってもうまく焦点が合わない。母と朝食をとって、同じタイミングで家を出た。一言も交わさなかった。

 

授業の内容はなにひとつ頭に入らなかった。国語の教科書を朗読しているときも、声は出るのになにを読んでいるのか判然としなかった。数式を解いて答えを書いても、どこをどう計算したのかいまいち覚えられない。手が勝手に動いているみたいだった。昼休みになってようやく脳が動いている感じがした。

 

五時間目は生物だ。得意科目だから多少気を抜いても大丈夫だろう。生徒に答えさせろような先生でもないし。僕はほっとして空を眺めた。真っ白い雲がクジラみたいだ、風に乗って泳いでいる。いつかこんな夢を見たのをまだ覚えている。イサはいまどうしてるだろう。変な態度とったこと、謝らなくちゃ。

 

 シャチという単語が耳に入った。先生の話に耳を傾ける。

 

「みんなはあんまり行かないかもしれませんけど、水族館のそばの海でシャチが発見されたらしいです。くれぐれも海に入らないように」

 

 僕の良く知っている場所だ。首筋を気色悪い汗が這う。嫌な予感がした。クラスの誰かが質問した。

 

「シャチって人を襲うんですか?」

 

「そりゃあクジラを捕食するくらいですから。水族館で飼育されているのと野生のではわけが違うでしょう。トラジエントと言って、単独で狩りをするものもいますから」

 

 みんな興味を持ってしまったのか、教室がざわつく。先生が手を叩いて制する。

 

「とにかく、教室までは襲いに来ませんよ。授業を続けますよ」

 

ふたたび授業モードに切り替わる中、僕は教室を飛び出した。

 

 

 

全速力で自転車を漕ぐ。水族館を経由している余裕はない。大きく迂回して、港を目指した。ここならいつもの砂浜には行けないけれど、海を見渡すことができる。大きな音が聞こえた。水中でなにかが暴れるような音だ。自転車を乗り捨て、立ち入り禁止の看板を素通りした。ひたすらにイサの無事を願った。

 

恐ろしい光景がそこにあった。一匹のシャチが、クジラを襲っている。イサだ。体はイサのほうが大きいのに、なす術がない。悲鳴のような声が響く。

 

「やめろ!」

 

 僕は叫んだ。けれどその声は波音にかき消された。そうだ、いつかイサが言っていた。生き物の世界はすべて弱肉強食なんだ。命が命を奪うのが、この世界のありのままの姿なんだ。あのシャチがイサを襲うことも、シャチの自由だ。僕がどうこうできることじゃない。だけど、だったら僕がイサを助けたいのだって、それは僕の自由じゃないか! 僕は海へ飛びこんだ。

 

 必死にもがいて、だけど波にさらわれた。海流は容赦なく僕を弄ぶ。ギリギリ息継ぎができるくらいの一瞬だけ、海面に顔を出せる。まるで海に試されているみたいだ。そしてこどものいたずらみたいに、イサとシャチのもとへ僕を放り出した。

 

 白と黒の巨大な生命が、僕の眼前にいる。食物連鎖の頂点が、恐ろしく静かに佇んでいる。鋭い眼光でこちらを見据え、巨躯には力と余裕が満ち溢れている。その様はまるで海の王だといわんばかりで、僕はただただ圧倒された。

 

 ただでさえ泳げないうえに、身がすくんでしまってなにもできない。僕はただじっとシャチの眼を見た。

 

 誰の目にも馬鹿みたいに映るだろう。泳げない生き物が、肉食の海獣に立ち向かうなんて。ともすれば僕はこのまま喰い殺されるかもしれない。そうでなくても、溺れ死ぬことだってある。だけど逃げる気はない。イサを守るって、僕が自分で決めたことだ。

 

 しばらくするとシャチは身をひるがえしどこかへ去っていった。突然知らない生物が現れたからだろうか。その真意はわからない。いつの間にか人間の姿になったイサは、体中傷まみれだった。僕は彼女を抱き寄せた。見ているのもつらくなる、酷い姿だった。イサは僕を見ると、頬を緩めた。

 

「わたし、生まれ変わったら、ユウみたいに……」

 

「やめて、やめろよ言うなよ。生まれ変わったらなんて、そんなもう死ぬみたいなこと言うなよ!」

 

 僕の声は海流にさらわれる。いつだってこうだ。守りたいものは守れなくって、伝えたいことは伝えられない。

 

「……奇麗」

 

 声が直接、心の中に聴こえた。クリック音。いつか彼女が聴かせてくれた。言葉のない水中世界で、彼女たちが心を通わせる方法。微笑むイサの瞳には、赤く染まった僕の右目が映っていた。

 

 ズルいよ。こんなときに、そんなこと言うなんて。君だけの方法で、一方的に伝えるなんて。僕にも言いたいことはたくさんあるのに。言葉を出せないいまになって、こんなにも君に伝えたいのに。

 

 イサの手が、とん、と肩に触れると、僕の体はどんどん浮上していった。マリンスノーに連れ去られるみたいに、彼女がどんどん遠くなる。手を伸ばしても触れられない。イサが光の粒とともに暗闇に飲まれる。恐ろしくなるほど奇麗な光景だった。まるで夢から覚める瞬間、世界に縋りつこうとするような。

 

星が降る海の底へ、イサは消えていった。

 

 

 

 しばらく気を失っているうちに、浜辺に打ち上げられていた。太陽がえらそうに僕を照りつける。あんなに遠くにあるはずなのに、空の端まで照らしている。僕はなんてちいさいんだろう。

 

 

 

 その日の学校は午前中で終わった。なにやら大事な会議があるらしく、短縮授業になったのだ。帰りのホームルームの時間に、服装点検が行われた。はじめはどうなることかとひやひやしたけど、おおむね無事に終わった。郷原先生は「男子にしてやはりまだ髪が長い」とうなっていたが、佐野先生がうまくなだめてくれた。

 

 それから自転車で水族館に直行した。大きな水槽で気ままに泳ぐイルカを横目に、僕は海へ向かう。道中、後藤さんと神戸さんにあった。

 

「やや! これはこれは深井氏。どうされたんですかなそれは」

 

「ああ、ちょっと気分転換というか、イメチェンというか」

 

「いやはやこれもなかなか、いやすこぶる良いですな!」

 

 ふすふすと鼻息を荒らげる後藤さんに、合いの手のように「キモイ」と神戸さんが添える。

 

 海に行くので、と会釈をして二人と別れる。後藤さんが手を振ってくれた。別れ際、神戸さんに、おい、と呼び止められた。

 

「……晴れてんな」

 

「おかげさまで」

 

 にやりと口角をあげながら、神戸さんは手で追い払うようにした。僕はもう一度頭をさげて、先を急いだ。

 

 砂浜はゆるく風が吹いていて、微かな波が踊っている。足がすこし沈む感覚を味わいながら、波打ち際まで歩いた。

 

 久しぶりに両目で見る景色は記憶よりもずっとまぶしくて、世界はこんなにもひろかったんだと目を細めた。

 

 ねえイサ。髪を切ったんだ。くだらないことだけど、なんだか生まれ変わったみたいでドキドキする。頭といっしょに心も軽くなったみたいで、なんだか落ち着かないや。

 

自分で切るのは不安だったけど、案外うまくいったよ。学校に行ったら、みんな驚いてた。やっぱりなにかひそひそ言われてたけど、多分もう大丈夫だよ。なんとなく、そんな気がするんだ。母さんには、勝手なことして怒られるかなって心配だったけど、そんなことなかったよ。似合ってるって、褒めてくれた。今朝は急いで家を出ちゃったから、帰ったらちゃんと話をしなくちゃ。

 

痣も、心なしかちいさくなってる気がする。これは本当に気のせいかもしれないけれど、ひょっとすると治ってきてるのかもしれない。

 

 イサ、僕はいま、ちゃんと両目で見てるよ。君のおかげなんだ。あのとき君がああ言ってくれなかったら、僕はずっと変わらなかった。世界はこんなに奇麗だなんて、きっと知らないままだった。

 

 僕はね、イサ、君はきっとどこかで生きてるんじゃないかって思うんだ。だって海はこんなにひろいんだ。君は遠くに行ってしまっただけで、いつかまたこの場所に帰ってくるんだ。

 

 だから、それまでずっと、ここに来るよ。明日も明後日も、それからずっとさきも、僕はここに来るよ。話したいことがたくさんあるんだ。君に話したいことが、たくさん。いつか君とまた逢えたら、たくさん、たくさん聴いてほしいなって、思う。

 

 返事をするように、遠くでさざ波の音が響いた。