視界には木でできた天井があった。夏の終わりを告げるツクツクボウシが独り寂しく鳴いている。懐かしい風の香りに私は意識がはっきりさせた。手に畳の触感が伝わる。ゆっくりと体を起こした。不意に風がやってきた方角を見る。障子は全開になっており、部屋の中にも夕暮れの赤が染まってきていた。扇風機もクーラーもなかったが、風のおかげで背中や額には汗一つとして流れてくることはなかった。
状況を頭の中で整理した。ここがどこかはとんと検討もつかなかった。だが一つだけ、自分の中であふれ出る感情と呼べるものがあった。
「懐かしい」
私は口に出してそう言った。この状況にぴったりとあてはまる言葉だった。ここがどこかも知らなかったが。
そのまましばらく寝っ転がり、じっとしていた。耳に入ってくるツクツクホウシの声は不思議と耳障りではなかった。一年でこの季節にしか聞けないその声に、私はなぜかクスリと笑ってしまった。心地が良かったが、さすがに夏にじっとしていると、段々汗がじんわりとにじみ出てきた。体が慣れてしまったのだろう。体を起こした。そう言えばこの場所どころかこの家のことすら知らない。畳を踏みしめ古びた部屋を探索する。この家の特徴なのか、障子が皆全開になっており、まるで部屋がすべてつながっているようだった。そんな部屋たちの一室に、鞄が置いてあった。やたらと見覚えのある鞄だ。一目で自分のだとわかった。この部屋にはかなり不釣り合いなものであったからだ。中身を確認した。財布や携帯電話、充電器など必要最低限のものが入っていた。これぐらいあれば外に出ても問題はないだろう。私は玄関を探し、そこで靴を履いた。外に出てみよう。靴もやはり不釣り合いなものであったが。
石でできた道を行くと門が見えた。門は木でできていたが、何者も易々と通すわけではないことが見ただけで伝わった。門の扉へと手をかけ、外へ出ようとしたときだった。
「どこ行くの?」
人の声が背中の方に伝わった。優しくて何故か落ち着く声であったが鳥肌が立ちそうになった。家に誰かいる気配はなかった。心臓の脈拍が大きくなっている。全身の血管がそれに同調してバクバクという音を体全体からたてそうになっている。恐る恐る振り返ると、そこには女性がいた。人がいたことに改めて腰を抜かしそうになったが、冷静になりまじまじとその人を見た。体つきは本当に普通の女性といった感じであった。服装も涼しい夏の終わりに着るものだった。さわやかさがある白く少し花柄のある半袖にショートの紺色のズボン、それとこれまた花があしらわれたサンダルを身につけていた。
「出かけるんなら、一緒に行きたいな。」
冷静さを取り戻すためにその女性を観察していると、また声をかけてきた。この人と会うのは間違いなく初対面のはずだ。しかしその人が発する声は、幼いころに聞いたことがあるかのように耳に馴染んでくる。その声を聴いてようやく冷静さを取り戻し、心臓の脈拍も落ち着いた。そう言えば顔を見ていなかった。話しかけようと目を顔に向ける。声に似つかわしい優しそうな顔だった。声rまた驚いたことなのだが、誰かに似ている気がする。声と顔が合わさってまた「懐かしい」という言葉が浮かんだ。
「散歩するのにちょうどいい時間だもんね」
そう言って彼女はずいと私の前に立ち、手を取った。
「いこいこ」
私は彼女の赴くまま、外に出ることになった。
空はほとんど赤く染まり、東側がわずかに紺色に染まりつつあった。影も相まって真っ黒になったカラスが少数の群れを成してかあかあと鳴いていた。それ以外に何もない。田んぼがあちこちにあり、家がその間にぽつん、ぽつんと建っていた。私にとって田んぼは目新しいものであった。落ち着きなくあたりをきょろきょろしてしまう。だが田んぼと言え以外ほとんど何もない。規則正しく動く信号機が動いており、この町の境となっている山がぐるりと囲っているだけである。自転車に乗る人ぐらいいてもいいはずだが、そのような心の問いかけに応えることはなかった。ただ、今繋がれている手は温かく、やはり優しかった。誰もいないように見えるこの町で、唯一現実として感じとれるものだった。だがあれ以降、彼女は話そうとしない。意を決し、私は口を開いた。
「あの、お名前は…。」
「ん~?」
彼女は不思議そうな顔をして振り返った。何で知らないのとでも言いたげな、無垢な顔をしていた。
「忘れちゃったの?」
そう言われて、頭を搔いた。そんな顔をされたら、初対面とはとても言い出せない。謝ることなんてないはずだが、自然とごめんと私は一礼した。彼女はぷっくりと頬を膨らませ、仕方なさそうに言った。
「もうっ、しょうがないなあ。蜷咲┌縺励?縺斐s縺ケだよ~。ちゃんと覚えた?」
「え、あ、うん。え…?」
一秒ほど思考が止まった。唖然とした。名前だけ、なんて言っていたのかちっともわからない。優しい声であるため、名前だけわからないなんてそんなことはあり得ないはずだ。だが実際問題、まるで文字化けしていたかのようにその部分だけわからなかった。ノイズが入っていたわけではない。何が起きたんだ?
「あの売店でアイス買お~」
彼女はお構いなしに、私を売店に入れた。取り戻した冷静さをまた手に入れたくて、空を見た。赤い夕暮れはいつの間にか終わりを告げようとしていた。
適当にアイスを選び、売店の外に備え付けてあるベンチに腰掛け二人で冷たいそれを口に運んでいた。店員はいなかったが、彼女はここの店長は優しいからお金とメモを置いておけば大丈夫とお気楽に言った。私はソーダ味の棒アイス、彼女はカップのチョコアイスである。口の中で少しはじける甘い感覚は私を周りの景色が見える程度に冷静にさせた。日が当たらなくなり、もはや影が見えなくなりつつある。ツクツクボウシは寝てしまったのか、もう声が聞こえなくなっていた。代わりにリンリンとスズムシヤコオロギが静かな心地よい合唱会を開いている。優しいこの声は夏の終わりが迫っている証でもあった。ふと彼女を見る。カップに入ったアイスを即席のスプーンでパクパクと目を細めて絶品であるかのように食べている。幸せが彼女からあふれ出ているかのようだ。その顔を見ていると、何故か悲しくなってきた。終わりを告げる合唱会を聞いているからだろうか、それともこの一日自体が終わってしまうだろうからか。いつまでもここに居たい、終わらないでほしいという気持ちがじんわりと私の心を包み込んだ。名前もわからない上不意に現れた普通なら怪しすぎる目の前の人物に、私は親しみを覚えていた。
「暗くなってきたねえ。良い感じ!」
アイスを食べ終え、満面の笑みを浮かべて手を取り、どこかへ連れて行こうとした。
「どこに行くの?」
急な行動に私は思わず彼女に聞いた。彼女はいったん立ち止まり、目を細めてにやりと笑いながら
「秘密!」
と何も教えてくれなかった。だが悪い予感はしなかった。少なくとも危ないところではないのかもしれない。いかにも板面をしそうな眼の中にも、私を喜ばせたいというやさしさが含まれているように見えた。彼女を見ていると、なんでも優しさに関連付けてしまうようだ。もはや初対面の中とは思えない。名前も知らないのに。いったいなぜなのか。ぼんやりと考えているとこれまた急にがくんと体が前に引っ張られた。彼女が手を引いて、走り始めたからだ。アイスを食べたからか、私を引っ張るその手は風よりも冷たくなっている。ひんやりとした手を私は握り返した。
もはや赤色がなくなった空の下、私たちは走り続けた。スピードは速くはなかったが、止まることはなかった。辛くも苦しくもない。これから素敵なことが起こるのだろうと、私はドキドキしていた。そちらに使う労力の方が体への負担が大きかったかもしれない。いつかたどり着いてしまう目的地に早く行きたいという気持ちと、まだ終わらないでほしいという気持ちが混在していた。私たちは走り続け、やがて町から少し離れた小川へたどり着いた。もはや人気はなくなり、完全に自然の音と川のせせらぎしか聞こえない。私たちが子供であったならば、危険だから急いで帰っていただろう。そういえば、彼女はいくつなのだろうと思ったが、女性に年を聞くのは野暮というものである。そんなことより聞かねばならないことがあった。
「ここはどこだい?」
そう聞くと彼女はしいっと口元に人差し指を当てた。私は言われたとおりに静かにその場にじっとしていた。すると、小川の向こう側から黄色と黄緑を併せ持った光があちこちから飛んできた。
「やったあ。今日はやっぱりたくさんいるねえ」
彼女はぴょんと小さく飛び跳ねて、ふわふわとした光に走り寄っていった。光はその場に立ち尽くす私のもとへと飛んできた。光の正体は、赤い頭部を持った黒い虫であった。手に取ろうとするとふわりとかわした。幻想的という言葉が似合うその光に見惚れていると、彼女が再び優しく手を取り、川のほとりまで私を運んだ。光の量は増え、私たちを包み込んでいった。
「蛍はやっぱり綺麗よね。」
隣にいるやさしい手の持ち主がそう言って水をすくうような仕草をした。集まったわけではないが、まるで蛍が手の中をくるくると回ったかのように見えた。優しい手と光、そして小川のせせらぎだけが私の周りにあふれていた。小川は透明度が高く、蛍の光を反射していた。その光にあてられて、私たちの姿も映り込む。不意に私の顔が写った。
その瞬間、私は自分の顔を思い出した。反射神経が働いてしまい、私は彼女の顔の方をばっと向いてしまった。切なそうな、悲しそうな笑みを浮かべるその顔は、今小川に映る私の顔と似ていた。性別が違っているのになぜ「似ている」のだ。今日何度目かわからない混乱に頭をフル回転させていると、周りがパン、パンと音を立てていることに気が付いた。見渡した。
「町が消えていく」
口に出して言ってしまった。何を言っているかわからないが、これは事実であった。町が区画ごとにパンと音を立てて黒く消えていく。そのスピードは速くなり、とうとう私たちの周りだけになってしまった。彼女に手を伸ばそうとする。いやだ。終わりたくない…!
「ありがとう。縺セ縺滓擂縺ヲ縺ュ」
彼女はずっと出していた優しい声でそう言った。最後だけ、名前と同じく何を言っているかわからなかった。目がかすんでいく。私の目に映ったのは、蛍の光に照らされた彼女の笑顔だけであった。
視界には特殊金属で出来た天井が見える。音は何も聞こえず、静寂だけが部屋に轟いていた。プシュウとまるで炭酸が抜けたような音を立てながら私の目の前で大きな蓋が開く。全てを思い出し、私は飛び起きた。そしてあたりを見渡す。木漏れ日とは言い難い青系統の光が漏れている方に首を向けた。そこにはとんでもない大きさの窓があった。私はでかすぎる窓の向こう側にあるそれを見て全てを察した。窓の反対側から何かが入ってきた音が聞こえた。
「ああ、良かった。無事帰ってこれたようですね。…うんうん、脳波及び心拍数共に正常値だ」
私は声のする方へ向いた。顔や体を見ただけでは、“どちらか”は分からない。白衣を模した服を着ており、医者であることを思い出した。
「このカプセルも考えものですね。『人類の故郷』を感じ取れるのは大変すばらしいものですが、ちゃんと帰ってこられないと困ります。ただでさえ予約が詰まっているのに」
まあ私も危うかったんですけどね、と医者は笑った。その後指示に従い、質疑応答と検査を受けた。結果、体に異常はなかったとして、私はその場を後にすることとなった。必要最低限の物しか入ってない鞄を肩にかけ、個人宅直通の公共交通機関に乗り込んだ。ゆらりとも揺れず淡々と自動運転でパイプ型の道路を駆け抜けていく。私はそれに身を任せ、窓の外を見た。そしてあの『仮想の故郷』を思い出していた。あの子は誰だったのだろうか。名前などが分からなかった理由は、医者曰く「のめりこみを防ぐための安全装置」であった。あの『故郷』は私の遺伝子情報や記憶をもとに作られたものであった。もしかしたら、あの子は私の…。
そこまで考えて、自宅についた。ふうっとため息をつく。またこの何も変わらない世界で生きてくしかないのだとげんなりした。予約はもう四十五年五ヶ月は埋まっているらしいから、しばらくしてブームが去るのを待つことにしよう。
私は乗り物から降りて、ただ青に染まった「地球」とやらに首を向けた。
了