暗闇の中、少女は目を覚ました。ゆったりと水中から掬い上げられるかの如く、意識が次第に鮮明になっていく。
見知らぬ場所に突如連れ去られた少女は、己の現状に理解が追いつかず、頻りに辺りを見回す。だが幾ら五感を研ぎ澄ませようとも、人の気配はおろか、微かな物音すら聞こえない。あるのは闇。それだけだ。まるで人里離れた夜の森の中に、たった一人放り出されてしまったような、物寂しさが襲った。
これがあの世というものなのだろうか。最後に覚えているのは、次第に不明瞭になっていく意識と全身に力が入らなくなっていく感覚のみ。自分が意識を失っているうちに、一体何が起こったというのだろう。
「気がついたのかい?」
俄かに少女の耳の鼓膜を打った年若い男ものの声に、ビクリと肩を揺らす。すかさず上を向けば、柔和な微笑みを口元に湛えた男の顔がそこにあった。夜の訪れの一歩手前の夕空のような、深い藍色をした瞳で眼前に広がる闇を一点に見つめている。知らない男だ。雨も降っていないというのに、瞳と同じ色を基調とした和傘を差している。
「……っ誰?」
慌てて男から離れると同時に、少女は不信感を剥き出しにして問う。しかし男は浴びせられた問いには答えず、穏やかに笑むばかりだ。それがどこか作り物めいて見え、より一層、年端もいかぬ娘が懸命に絞り出した警戒心を煽った。
全身の殆どを紫で包んだ和装姿の男は、少女が現世で培った、死神としてのイメージと随分とかけ離れている。ここは彼女が待ち望んでいた場所ではないのだろうか。
もう一歩、男から離れる。ふと前を向いていた男が少女を見下ろし、口元に微かな焦燥を混ぜた様子で何かを伝えかける。だが放たれた言の葉が届く間際、唐突に足元がぐらりと傾いだ。
二人の周囲をただ漂うばかりであっただけのはずの闇が、突として少女に襲い掛かる。悲鳴を上げるも、押し寄せてくる波に呑まれてかき消されてしまった。息が出来ない。いや、出来るのは出来ているのだが、上手く呼吸が出来ない。
何かに腕を掴まれた。と思ったその時には、そのまま一気に無造作な力加減で少女の体は闇から引き上げられた。
「はぁ……!? はッ……!」
少女を闇から引き上げたのは先程の男だった。
少女は肩を激しく上下させ、全身を戦慄かせながら男の紫紺の着物に縋りついていた。どこの誰とも知れない相手だったが、今はそれを考慮する余裕はない。男もそれを理解しているのか、動じる様子も少女を放そうとする様子もなく、悠然と少女を見下ろしていた。
「大丈夫かい?」
柔らかな口調で男が問いかける。だがそれに対する返事はなかった。
少女の四肢の震えはなかなか収まらず、上手く立つことが出来ない。呼吸の仕方が分からず、役立たずの喉は奇矯な音を立てるばかりだ。そんな少女の身を案じてか、少女を闇から救い出した男の手は今、あどけなさの残る柔らかな髪や小さな背中を撫で擦っている。そこに淫靡さは欠片もなく、まるで赤子をあやすかのような優しい手つきであった。
「こ……こは?」
乱れる息をどうにか宥めすかしながら、少女はそれだけをやっとの思いで絞り出す。少女の背中を何度も繰り返し撫で擦る手が、気持ち悪いようで心地よく、止めて欲しいようで愛おしかった。
「君の夢の中だ」
「……え?」
「ここは、君の夢の中、なのだよ」
男は唖然呆然とする少女に、語り聞かせるような口調で二度繰り返した。
男の言動にどう対処したらいいものか迷い、少女は返す言葉が見つけられずにいるまま、自分を見下ろしている顔を思わず見つめ返した。確実に成人している筈だというのに、頬に刻み込まれた笑窪がやけに子供っぽいと、どうでもいいことが頭に思い浮かんだ。
「僕が冗談を言っているのか、そうではないのか。信じるも信じないも君自身が決めるといい。どの道、夢の中での出来事なのだしね」
そう言うと、この不可思議な存在は悪戯っぽく微笑んだ。
暫くして時が過ぎるうちに、少女の呼吸の乱れはやや収まりつつあった。まだ息苦しさは若干あるものの、訳の分からない男の存在が闇に乱された心を落ち着かせたのだ。
「あの、さっきのあれ……あれは、一体……?」
「あぁ……見てしまったのだね」
質問の要領どころか呂律すらうまく回っていないが、男は質問の意図を正確に理解し、仕方ないと言いたげに微苦笑を浮かべた。
「あれは君が今見ている夢そのものだ」
「…………そうですか」
少女は黙すると、本心を偽ることなく、疑わしげな半眼で男を見た。男はその刺々しい視線から逃れるでもなく、平然と、そして鷹揚に受け止めている。纏った雰囲気によるほんの僅かな差異はあれど、その笑みは能面のように一寸たりとも揺らぐことはない。
他にどうしようもないから、少女は頭の中を一度整理して、一から物事を吟味したいという思いに駆られる。だが先程の闇の中で見たあれらが、少女を何度も混沌の中に引きずり戻そうとするため、思うように思考を纏めることが出来ない。
ふと、この時になって漸く、少女は未だ男にしがみついたままであることに気が付き、咄嗟に離れた。しかしながら、また先程の闇に取り込まれやしないかという恐れが少女の足を凍り付かせてしまい、一歩にも満たない距離で立ち止まるというなんとも中途半端な結果になってしまう。
少女は俯き、落ち着かなさげに両手を胸の前で何度も握り直した。己の無様な行動を恥じているのも理由の一つだが、それ以上に少女は自身の胸の内に沸き上がってきた自身の感情に戸惑っていたのである。
少女は図らずも男の存在が遠くなってしまったことに名残惜しさを覚え、たまらない寂寥感を感じたのだ。
そうは言うものの、素直になれない少女はそんな自分自身に対して屈辱を覚え、無理矢理にでもその不快な感情を無視した。
「そう怖がらずともよいよ」
男はそう呼び掛けるが、少女からしてみれば無茶を言うなと罵倒したくなるのが当然だ。
とは言っても、これまでの経緯を顧みると、もう一度状況の説明を求めたところで、納得できるような答えが返ってくるとは考えにくい。
「あなたはわたしをどうするつもりなんですか?」
「どうもしないさ。君が目覚めるまで、君の悪夢が消え去るまでここでこうしているだけだよ。それと、あまり僕から離れない方がいい」
大人しく話を聞く素振りを見せながらも、じりじりと男から距離を置こうとする少女に向けて、男はやんわりと忠告する。その言葉を聞いて、少女はピタリと立ち止まった。
「少なくとも、この和傘の下からは決して出てはいけないよ。さっきみたいにまた悪夢に呑み込まれてしまうからね」
少女の思考を全て見透かしたような男の物言いに、若干不服そうな顔つきになるも、感情とは裏腹に少女はやけに男の言葉に従順だった。
この闇に関してだけは男の言葉を信用できる気がしたのだ。
先程闇に落ちた時に見た「あれ」は、少女がいつも見ている夢にそっくりだった。そして男にそこから助け出された時の少女の身に起きた反応も、よくあるものだった。
「あなたは一体、何者なんですか?」
「僕かい? 僕は人の子が言うところの妖、といったところかな」
その質問をされることを待ち侘びていたのかというほど、打てば響くといった調子で即座に返された答えに、少女はまた男に訝し気な視線を送る。などということはなく、自分でも意外なほど冷静にそれを受け止めた。
これまでの非現実的な出来事が少女の感覚を麻痺させていたのもあるが、ここまで一貫した主張で攻められてしまっては、最早疑うのも面倒になってきたのだ。だから一度、全てとまではいかないが、鵜呑みにしてみようと考えたのである。それに男の言葉が本当だという証拠も、はたまたそれが偽りであると立証する方法も思いつかないのだから、いくら頭を捻ったところで無駄だと諦めたのだ。
少女は自分の五感を限界まで駆使し、男が何者であるか探った。人の形をしているが、瞳の色、何を考えているのか計り知れない笑み、そしてこの状況全てが男が浮世離れした存在であると、言外に告げている。周囲に音はなく、匂いもない。ここにいる少女と男以外、何もなかった。
何気なく男の足元に目をやると、闇が渦巻き、男の足に絡みついていた。下駄しか身に着けていない男の雪の如く白い素足に、黒が良く映えている。
闇は男の足を蛇のように伝い、和装の裾の下に潜っていた。
「あの、足のそれ……大丈夫、なんですか?」
「ん? あぁ、平気だよ。これは君にとっては害なるものだが、僕にとってはとても大切なものだからね」
「そうなんですか……?」
「これを見てみるといい」
「?」
男は懐に手を突っ込むと、ビー玉のようなものを取り出した。そしてそれを右手の人差し指と親指の間でつまみ上げ、少女の眼前に翳して見せる。
ビー玉の中を真っ黒いドロッとした、ヘドロのような液体が半分ほど満たしていた。
「これに今君が見ている悪夢を詰めている最中なんだ。この玉の中身が満たされた時、君の悪夢は晴れる。暫くは眠りに怯える必要もなくなるはずだよ」
「暫く……ですか」
そう呟いた少女の口調は心なしか沈んでいる。少女は努めて己の感情を表に出さないよう注意を払っていたつもりなのだが、少女の悪夢の内容を知り尽くしていた男の眼は少女の心中を造作もなく見抜いた。
男は少女の頭を今一度、ゆっくりとした挙動で撫でた。
「僕の手は温かいと思うかい?」
「え?」
少女は男の手を拒絶する素振りは見せず、寧ろ従順なまでにそれを受け入れていた。
男に言われるまで特に意識もしていなかったが、言われてみると、確かにじんわりと心が楽になるような、そんな温かさが伝わってくる気がした。
「はい。それが何か?」
「いや、それでいいのだよ。この温かみを忘れぬようにするといい」
「あ、はぁ……?」
男の意味深な言動に、少女は解せぬ顔を浮かべ、気の抜けた返事をする。
男が奇怪な存在であることには変わらないし、疑問も数多く残っている。しかし今の少女にとってそのようなことはどうでもよくなりつつあった。ただ和傘の下の、この狭い空間に束の間の安らぎを覚えていることだけは確かなのだ。
唐突に周囲が明るくなりつつあることに少女は気が付き、驚いて辺りを見回す。すると先程までは一面を闇が覆いつくしていたというのに、今では霧が晴れていくように闇が引いていく。男の手元を見やれば、半分ほどしか溜まっていなかった中身がもうほとんど満タンになりつつあった。
「玉の中身が満たされた後、わたしはどうなるんですか?」
「目覚めるまでは、このままさ」
「そうですか……」
水底のような静寂が、二人を包み込んでいる。だが少女はそこに居心地の悪さを見出さない。寧ろこの空間がまだ続くことにどこかホッとしていた。いっそのこと、ずっとこのままでもいいとさえ考えていた。
仮にここが少女の見ている夢の中なのだとすれば、少女はまた失敗してしまった。この夢から醒めてしまえば、またあの現実に嫌でも帰らなければならないのだ。
「君は、一体どうして自死しようとしたのかい?」
「!? どうして……それを?」
今思い出したとばかりに唐突に投げかけられた質問に、思いがけず少女の声音は低くなる。事実だったからだ。
「あぁ、失敬。君たち人の子の中には心を読まれることを厭う者もいたのだったね」
謝罪の意を含んだ台詞とは裏腹に、男の面立ちには変わらない微笑みが刻まれている。少女はその笑みを腹立たしいとばかりに憤怒の情を込めて睨み付けた。
「……あなたには、関係のない事でしょう?」
「ああ。そうだね。只興味本位で聞いてみただけさ」
「っ興味本位で聞くような内容じゃないと思いますけどっ……」
「人の子からすれば、そうなのかもしれない。だけどここは夢の中だ。君はいずれ夢から醒める。ここで起こったこと全ては夢幻の世でのこと。僕のことは空気だと考えて、全てを曝け出して見せてはどうだい?」
「…………」
少女は渋った。ここで男の要求通り、素直に全てを話せたら自殺なんて考えない。出来ないから少女は死のうとしたのだ。
再び闇の中で見た悪夢が少女の記憶を過ぎり、心臓に巻き付いては締め上げる。少女はそれ以上心が傷つかないように、壊れてしまわないように、そして守ろうとするかのようにその場で蹲った。そうでもしないと、悲鳴を上げる心と同じように男の目の前で、無様にも理性を失った獣の如く狂乱してしまいそうな気がした。
「もう……疲れたんです」
項垂れたまま平坦な声音で少女は囁くように言った。それはまるで風に乗って消え去るのではなかろうかというほどに弱弱しく、男に向けたというよりも自身に向けられたもののように思われた。
「死が終わりだとは限らないよ。それに、死にたいわけではないのだろう?」
「…………消えたい。終わりにしたい」
全てを忘れ、楽になりたい。あの生き地獄から抜け出せるのだというのなら、それしか方法がないというのなら死さえ厭うつもりはない。
「君が生きている現世は、きっと君にとって優しい世界ではなかったのだろう。君は疲れているだけだ。心ゆくまで休むといい。もし悪夢を恐れているのなら、僕がその露払いをしてあげよう。先程も教えたように、僕にとって悪夢は必要なものだからね。そして、泣きたい時は思う存分泣くといい。その後は存分に眠るがいいよ。君が望むのなら、僕が傍についていてあげよう」
「…………」
男の言葉は少女にとって酷く魅力的にも思えた。まさに溺れる者は藁にも縋るといったところだろうか。
少女を否定することもなく、何かを押し付けてくるわけでもない。これまでの誰とも違った、全てを心得ているかのような男との二人だけの空間が、酷く心地良く感じたのだ。
まるで物乞いにでもなった気分だ。
たった今出会ったばかりの他人にまでも、みっともなく泣き縋りたいという衝動に駆られている自身に、少女はどうしようもなく情けないような気持ちになった。
「泣くって……意味あるんですかね?」
そう言って少女は寂し気に嗤う。
男の言葉に甘え、身も心も全て任せきってしまえたのなら、さぞかし楽になれるだろう。だが少女は拒絶する。もう何も望まない。死ぬこと以外に何かを望もうとは思わない。
沢山泣いた。これでもかというほど泣きに泣いた。それでも少女の乾いた心はひび割れて膿み、ジクジクと痛みを訴え続けている。
誰かに助けを期待することも、明日を生きる気力を持ち続けることも、何もかもに疲弊してしまった。もういい。何もかもどうでもいい。終わりたい。終わらせて。
「僕はそう思っているよ」
端的にそれだけを答えた男の言葉が、思いもよらず胸に突き刺さり、少女は唇を噛み締めた。
自分は意地になっているのだろう。理性では理解しているものの、最早これ以上傷つくまいと懸命に身を守ろうとする感情が、他人の存在を受け入れることを拒絶している。
「この夢はもう醒める。暫くの間、さよならをしなくてはいけないね。僕は夢の世界でしか君とこうして心を通わすことは出来ないから。でも君が望むのなら、何時でも馳せ参じるつもりでいるよ。気が向いた時、僕を呼ぶといい」
そこで男は真っ黒に悪夢で染まり上がった玉を懐にしまい込むと少女の腕に触れた。誘われるがまま、その場を立ちあがる少女の目尻は、心なしか僅かばかりに潤んでいるようにも見えた。
男はだらりと肩から力なく垂れ下がっている少女の両手を左手で持ち上げると、空いた方の右手を懐に突っ込み、先程見せた玉と同じような形状をした無色透明な玉を取り出し、少女の両手に握り込ませる。
「これは?」
「君にあげよう。もし僕を呼びたくなったら、それに願を掛けるとよいよ」
「がん……?」
「あぁ。そうだな……僕の名を呼ぶのが一般的かな」
「でも、わたしはあなたの名前も知りません」
「僕に名はない。君の好きな呼び名を付けるといい。それが君の中で僕の名となる」
「ネーミングセンスなんてないのに……」
正直な不満を口にすると、男は笑い声を上げた。常日頃から人の評価に怯えて生きている少女の観察眼では、それは控えめなものではあったが、どこまでも陽気で人を嘲笑う響きは見られない。これまでの、まるで偽物のようにも思われた微笑みとも違った。ただただ、少女との会話を楽しんでいる。そんな風に思われた。
「こう見えても僕は長生きでね。これまで色んな名を与えられてきたが、何だったかな……あぁ、そうそう! 『きらきらねぇむ』とやらも貰ったことだってある。あれはあれで良い名だったが、些か奇妙でもあったな……。いやはや、最近の人の世の移ろいは僕のようなものにとっては些か早すぎて困っているよ」
男はそこで、もう一度カラカラと声を上げて笑った。
「それに、君と同じことを話していた者もたくさんいた。だが、誰しも最後に僕を呼ぶ暁には、とても素晴らしい名を与えてくれたものだ。君たちが気に掛けているネーミングセンスなどというものの有無は、些事でしかないよ」
少女は恨みがまし気に男を睨みつけた。はっきり言ってプレッシャー以外の何物でもない。他人の名前ということもあり、気合を入れ過ぎた結果、奇天烈な名前を付けてしまったりするのだ。
「そろそろだね」
「え?」
「君が目覚めようとしている」
男の言葉に呼応するように、夢の世界が揺らぎ始めた。
じわじわと自分の意識と存在が薄れていくことだけが分かる。
「……わたし、本当にまだ生きているんですね……」
「あぁ。生きているよ」
「…………そう、ですか……」
残念なようで喜んでいるような。
自分でも驚くほどこの男に心を許している事実に、少女は驚いた。しかし最初に感じていたような不快感や拒絶は無い。男の存在は殊の外少女の心に入り込んでいたようだ。
「今日は素敵な悪夢をありがとう」
全然嬉しくない礼の言われようだ。こちとら悪夢の海に呑まれた際には酷い目に遭ったのだ。
(でも、まぁ……)
「あなたらしい変なお礼ですね」
ホロリと少女の口元に苦笑が漏れ出た。男は「そうかい?」と不思議そうな語調で嫋やかに笑みながら小首を傾げた。男にとって、先の言葉はどうやらごく普通の礼文句らしい。
「こちらこそ、ありがとうございました」
少女は男に向けて頭を深く下げる。
何に対しての礼なのか、少女にも分からない。少女を悪夢から救い出してくれたことへなのか、それとも少女の心を少しでも慰めてくれたことへなのか。ただ、とにかく男に対してお礼を言いたかった。
「最後に一つ、忠告をしておこう」
時間が差し迫っているせいか、若干早口で男は告げた。
「ここは君の夢の中だと僕は言ったね? だから僕と僕の所持品以外の全ては君の記憶が作り出したものだ。僕はただ術で君の悪夢に介入して、君に呼びかけているに過ぎない。だから君が感じた僕の手の温度は、君の記憶の中にある誰かの手の温度なのだよ。君は自分が孤独だと思っているのかもしれない。けれど、本当は君はちゃんと持っているんだ。今まで忘れてしまっているだけだ。だから夢から醒めたら、その手の温度の持ち主が、本当は誰なのか思い出しておくれ」
最後の方の台詞は、まるで遠くから叫んでいるようで聞き取るのがやっとだった。どこか懇願を含んだ言葉に、少女は返事をする暇すらなかった。それがひどくもどかしく、少女は歯噛みした。
夢の世界が消えていく。男の姿が掠れていき、それに合わせて雲の切れ間から陽の光が地上を照らし出していくかのように、白い輝きで目が眩んだ。
束の間、静寂と暗黒が少女の世界を支配した。
見慣れない天井、キツい消毒液の匂い、硬く寝心地の悪いベッド、腕に刺された針の付いたチューブ。
ここは病院らしい。
目覚めて最初に頭に思い浮かび上がったのはその一言だ。
生きている。
少女は知覚する。
つと目から温かいものがこめかみを伝った。それらは少女の意思に関係なく止め止めなく溢れ続ける。
少女は生きている。望んでもいないのにも関わらず、また生き延びてしまった。己の望みに反し、無駄に生命力の強い頑丈な肉体が恨めしい。
どうして死なせてくれないのだ。どうして楽になる選択肢を選ばせてはくれないのだ。
少女は天に、信じてもいない神々に向けて罵詈雑言の呪いの言葉を心で吐き捨てる。しかしながら少女の思いに応えるものは何もない。
途轍もない虚無感に襲われ、少女は呆然自失とする。
夢で出会った男の言った通りだ。もう疲れた。何をする気力も湧いてこない。一人孤独の中で流れる時に身を任せるがままそこにあるだけ。黙々と自身の身に起る生理現象に付き従うだけだ。
「はぁ……」
ようやっと涙が止まると同時に細く長い息を吐く。
窓から白いレースのカーテンを揺らして病室に吹き込んでくる風が、少女の吐息を攫っていく。少女が眠り込んでいる間、誰かが開け放しにしていたらしい。
初夏の生暖かさを含んだ風が、少女の頬を撫でている。
風は男の手を想起させた。この日溜まりに照らされて温かくなった風のように、和やかで固まったしこりが解けていくかのようなホッとするあの手を。
少女は右手を持ち上げた。自殺しようとして大量に服用した薬がまだ抜けきっていないのか、腕に力が上手く入らず、たったそれだけの挙動の為にかなりの時間と労力を要した。
少女は目の前に翳した右掌を控えめに開き、中にある物を確認する。
予想通り、夢の中で男に手渡されたあの玉があった。つまりあの出来事はいつか忘れ去られる夢でも、少女の深層心理が生み出した虚像でもなかったことが証明されたのである。
その時、不意に少女の目の焦点が虚ろになる。何かに取り憑かれたかと思われるほどにあてもなく虚空を彷徨うその瞳は、酷く暗く澱んでいる。
あの男は一体、少女をどうしようというのだろう。あの微笑みの下で何を思っていたのだろう。目に映ったままの感想を言えば、少女の心に寄り添い、絶望を取り除こうとしているように見える。実際にそうだったとしても、「はいそうですか」とそれを信じてしまうほど少女は素直ではない。
「……死にたい……」
唐突に脈絡もなく吐き出された言葉。それは最早少女の口癖になっている言葉だ。特に何かしらの明確な意思を持って放たれたものではない。
右腕から力を抜くと、糸の切れた操り人形の如く地球の引力に従い、玉を握りしめたままシーツの上に少女の腕は崩れ落ちる。
視線の先を白く無機質な天井から左腕へと動かせば、数え切れないほどのリストカットの痕を誤魔化すように、手首には幾重にも大袈裟なまでに包帯が巻かれていた。
また死ねなかった。いや本気で死のうとはしていないのだからこの結果は当然なのかもしれない。
死にたい気持ちは本当だ。けれど死にたいわけではない。ただひたすらに生きていることが苦しくて辛くて悲しいから生きることをやめたいのだ。
生きることをやめる。それ即ち死を選ぶということだ。だから死にたいのだ。
目覚めたばかりだというのに、既に倦怠感が少女の全身をベッドの上に縛り付けている。何をする気にもなれない。
だったらもう一度眠ってしまおうか。
少女の脳裏に紫紺の和装の裾がチラつく。
何とも不可思議で甘美でそして快気に満ちた夢だったろうか。
少女は男から貰った玉を掌の中で転がし、弄んだ。明るい陽射しに晒され、光を反射してキラリと輝くその様は、水晶と見紛うほどに美しい。
まるで、人魚姫が流した涙のようだ。
「わたし、キモっ」
柄にもないことを考えている自分に、少女は思わず苦笑を漏らした。それは他人に合わせて無理矢理浮かべたものとしてではなく、自然のものとして浮かんだ少女本来の笑みだった。
(名前、どうしようかな)
体も怠いし、見舞いや看護師がやってくる気配もないため、起きて早々少女は既に暇だ。だったら夢の中で出会ったあの男の名でも考えてやろうかと思い起こしたのだ。
男は所詮、夢の中での出来事だといっていた。少女も所詮は夢の中での出来事だと思っている。しかしながらあの泡沫の世界での記憶に、唯一の安穏を見たこともまた事実だった。
誰かの手を温かいと心地いいと感じたのはいつ振りだろう。誰かの存在を無意識にでも求めてしまったのは久々なことだ。
ジワリと少女の瞳から、止まっていたはずの涙がまた零れ落ちた。
男は男の手の温度は少女の記憶の中にある誰かのものだと言っていた。然しながらその誰かが分からない。分かる必要も感じなかった。そして、分かりたくないと、本心からそう望んでいた。
あの温かみを持った掌は誰のもの? 少女をあやす慈悲深い母の手? 少女を抱き上げる逞しい父の手? 少女を先導する頼もしい姉の手? 少女を褒め称えた敬愛する先生の手? 少女と心を共にした心休まる友の手?
思い出したくない。思い出してしまったら、その全てに拒絶されてしまった少女には、何も残らない。せめて、思い出だけは。優しくて甘いこの記憶だけは汚したくない。
酷く鈍重な動作で体を横たえ直し、眉間の辺りで片掌に収まるサイズでしかない小さな玉を両手で握り締める。
「いやだ……いやだよぉ……」
少女の生きる世界に希望などありはしない。もう欲しいとも思わない。寧ろ、差し出されたとしても突き返してやりたいとさえ考えている。だからもう放っておいて欲しい。慈悲など掛けないで欲しい。当の昔に望みは捨てたのだ。夢の中でのことであろうが何であろうが、今になって望むよう仕向けないで欲しい。望んでしまえば、それが手に入らなかった時一番苦しいのはきっと少女なのだから。
窓の外から一陣の風が吹いていた。今日はどうやらよく風の吹く日らしい。風に乗って木々の葉が掠れ、颯とした音を立てている。
揺れ動くカーテンの奥へと目を凝らして見ると、青々とした緑の海がその水面を陽の光に反射させて煌めかせている。
また風が病室に吹き込んできた。それに乗って一片の花弁が迷い込んでくる。それは見えない糸で引き寄せられたかのように、ベッドに横たわる少女の目の前にフワリと舞い降りた。
それは桜の花弁だった。
季節外れもいいところだが、恐らくは散り残っていたものが風に晒され、漸く枝から離れることが出来ただけのことなのだろう。
少女は自分の元を訪れた桜の花弁を見つめると、慮外な出来事の為に一度ゆっくりとした瞬きを繰り返した。涙は既に止まっていたが、目尻に溜まっていた残りの雫が一滴だけ零れ落ちていった。
その薄桃色をした綺麗な花弁は、少女の記憶の端で時折揺らめいている紫によく馴染むような気がした。桜の花弁が舞う木の下に佇む彼の姿が簡単に想像できる。彼はきっと、和傘に顔半分を隠しながら、その下で変わらない笑みを頬に浮かべているのだろう。
そしてその笑みの下には何もない。少なくとも、あの男は人としては何も持ち合わせてはいない。そもそも人ですらないと彼自身が断言していたのだ。男の笑みを偽物のように感じていたのは、きっとそのせいなのだろう。
「いやでも」と少女は思い直す。何もないというのは少し言い過ぎだ。男は男個人として、少女を救おうとしていたのではないだろうか。多少の利を目的とした行動だったとしても、あそこまでする必要性が分からない。ほんの僅かでも、男にはその意志があったのだと、少女は信じたかった。
あぁ、彼はこの名を気に入ってくれるのだろうか……。
深く考え込めば考え込むほど、脆弱なまでに弱り果てた少女の精神には耐え難いほどの不安が圧し掛かってくる。そして不都合なことにも、一度少女の胸に巣くった一抹の暗い感情は徐々に他のことにまでその食指を伸ばしていく。それは余りにも貪欲で抑えが効かず、いくら押し止めようと足掻いても止まることを知らなかった。
もう自分に救いがあるとは思えない。元々、少女に生きる意味も存在する価値も無かったのだ。誰も少女のことなど顧みない。自己満足のために少女を気遣い、世間体のために少女の死を悲しむことはあっても、その本心はきっと少女のことなどどうでもいいのだ。
もう我慢することも、偽善者の戯言に付き合うことにもくたびれた。早く、静謐な終焉の時が来て欲しい。
…………でも、もし本当に救われるというのなら。
「助けて……助けてよ―――――紫桜」
この終わりのない苦しみの連鎖を断ち切って。もう一度生きている喜びを教えて。
少女にはこの世の理不尽に抗う力も人を信じる心も失われてしまった。そんな少女を閉ざされた世界から連れ出すことが出来るというのなら、いっそどのような形になろうとも構わない。
「素敵な名だね。ありがとう」
ふと今しがた耳に届いたこの音は空耳か。それとも風の悪戯か。
どちらでもいい。どうでもいい。
少女の心に届いたのなら、それが全てなのだから。