天使と悪魔

綿者

 天使とは規律を保つ存在。
 悪魔とは欲望に忠実な存在。
 水と油のようなこの二つが出会うとき、いったいどんなことが起こるのか――

 

 一人の女性がマンションの階段を駆け上がっていた。
 ブロンドの髪は振り乱れ、ドレスのようでワンピースのような白い服の裾をはためかせている。
 階段を登りきると一番端の部屋まで歩きながら息を整える。目的の部屋の前につき一つ息を大きく吸い、声高な叫びと共にドアノブをひねった、
「悪魔レイズ! 今日こそ貴方を魔界に送り返ヘブッ!?」
 直後に見えない壁にぶつかり顔をしたたか打ち付ける。
「ん~? まったく人が寝てるときに来るなよな~」
 部屋の奥からのっそりとした声と共に、半纏(はんてん)を羽織った猫背の男が姿を現した。
「優等生ちゃんは人の寝込みを襲えと習ったのかにゃん?」
 レイズと呼ばれた男は指を鳴らしながらふざけるような口調で女性に問うた。
 レイズの指パッチンと同時に女性を阻んでいた壁は消え、彼女は倒れそうになるのをドアにしがみついてこらえながら、碧い瞳を涙に濡らしながらレイズを見上げる。
「何ですかこれはいったい」
「対天使(リノセント)結界。お前だけを阻むお前専用の障壁だ」
 レイズはもう冬も終わりのこの時期に凍えたのか、半纏の前をかけ合わせながら奥へ戻っていった。
「あ、こら。待ちなさい!」
 言うが進まず。リノセントと呼ばれた女性は玄関から先へ踏み出そうとはしない。それは先ほど言われた自分用結界を警戒しているというより、何かを迷っているようであった。
「別に知らない仲じゃないんだし勝手に上がればいいだろ」
「な、ななな何を言ってるんですか! 男の人の部屋に無断で上がるだなんて……。はっ、読めましたよ!」
 リノセントは部屋の奥にいるレイズに鋭い視線を向ける。
「そうやって私の警戒を徐々に緩め、結婚してからでないとしてはいけないあれやこれやを……。このハレンチ悪魔!」
「そんなことしねぇし、というより考え方古いな。いまの世の中婚前にヤってない奴のほうが珍しいぞ」
 両耳から蒸気を噴きながらビシッビシッと指を差してくるリノセントに対し、あごをコタツの上にのせて彼女からは鏡餅ならぬ鏡ゴタツのように見えているレイズはあきれ顔で応えた。光を通さぬ黒曜石のような彼の眼は常に力がなく、彼女の覇気を奪った。
 結局は静々と入ってきたリノセントはピシッとした表情と共にキッとした視線をレイズへ向ける。
「今すぐ魔界に帰りなさいレイズ!」
「ヤダ」
「悪魔は人間界の秩序を乱す。規律を正す役目を持った我ら天使は神の命の元、貴方達が害悪を及ぼす前に人間界から追い出さなければいけないのです!」
「まー確かに。俺らが羽やら角やら出しても人間にゃ見えないし、力に対処もできないからな。でもそんな悪魔は一部だけだろ? 大概の奴らは外国人よろしく観光してるよ」
 “まま、入れ入れ”とレイズに促されるままコタツの住人に加わったリノセント。なんだかんだで付き合いの長い彼に気を許しているのだった。
「それにうちの魔神とそっちの神さん仲いいし、ただ悪魔ってだけでどいつもこいつもとっ捕まえろなんて言わないだろ」
「我が神には私のような者には分かるはずもない深いお考えがあるのです」
「ついでに言うと悪魔である俺たちが秩序乱してるって言ってるけどよ、天使のそっちのほうがハメ外して問題起こしてる奴多いじゃん」
 レイズの言う鋭い事実に一瞬怯むリノセントだが、ぷいっとそっぽを向いて言い募る。
「ああいう天使らは神の許可もなく勝手に降りてきた者たちです。その者らと神の命を受けて降りてきた私たちを一緒にされたくありませんね」
「ほら~、そうやって俺たちのことは問題起こしてるのも起こしてないのも一括りにするくせに、自分たちだけは違うだなんて都合のいいこと言う~」
 人差し指をクルクルと回しながらリノセントを指さすレイズ。口もおちょぼ口にしてブーブーとも言う。
「そ、そうだとしても! 貴方は明らかに問題を起こしているほうでしょう! 人間には手を出していませんが、天使と悪魔双方を襲っているのですから!」
 口喧嘩では勝てないと見たか、強引に話をここへ来た主目的へと転換した。
「しかも誰も彼もがあなたが言うところの問題を起こしていない者達ですよ!」
 リノセントは勢いよくコタツに手を振り下ろし、上にのっていたみかんタワーが崩れた。
「ま、確かに。そりゃそうなんだけどな」
 レイズは悪びれることもなく認めると、自分のほうへ転がって来たみかんをむきむき。リノセントの額に怒りマークが浮かぶ。
 天使としての能力を使おうと右手のひらに力を集めていると、彼女は異変に気付いた。
(付近の天使は応答せよ。天鳳ホテル付近で悪魔が暴れている模様。早急に対処のために向かわれたし。繰り返す、付近の天使は――)
 リノセントが察知した異変は他の天使が発したテレパシーによって確定付けられ、彼女は玄関へと向かう。
「きょ、今日のところは引いてあげます。しかし、次会うときこそはどんな手を使っても魔界に帰ってもらいますからね!」
「いってら~」
 むいたみかんをモグモグ。呑気な様子のレイズに見送られ、リノセントは玄関から真正面にある廊下の手すりを足場に飛び上がった。
 背中から白い翼を生やした彼女は、テレパシーで送られてきたホテルへ急ぐ。
 途中三人の天使と合流し現場近くの人目のつかない場所へと降り立ったリノセントは、表通りへ出ると辺りを見回して状況の把握にかかった。
 ホテルの看板は溶けるようにひしゃげ、周りの部分もグニャリと形を変えていた。
「こっちに力の痕跡があります」
 合流したうちの一人が、天使と悪魔が使う力特有の跡を感じ取り、リノセントと他二名を率いてその痕跡をたどっていく。
 行きついた先は潰れて長い月日のたった廃倉庫で、まず一般人は近づこうとしないだろう場所だった。
 穴開きの天井からはチェーンに繋がったフックがぶら下がり、割れた瓶や虫食いだらけの新聞が散乱している。
「これ以上は痕跡が薄くて追えませんが、この近くにいるのは間違いないみたいです」
「分かりました。散開して付近を捜索してみましょう」
 リノセントの提案に他の天使も頷き、二人は外へ、一人はリノセントと廃倉庫内を歩き回る。
「?」
 リノセントは視界の端に影を捉えそれを追ったが、屋根にとまったカラスだった。
(一体どこにいるんでしょうか)
 力を使って地下への入り口でも作っていないかと地面を調べるリノセントへ、廃倉庫内にいるもう一人の天使が声をかける。
「なにか手掛かりは見つかりましたか?」
「それがさっぱりですね。本当にここに逃げ込んだのかどうかも怪しいです」
「うーん。まぁ、それはここ付近に悪魔なんていないから当たり前なんですけどね」
「何をっ――」
 同僚の言葉に疑問を返す前に、リノセントは光の縄によって拘束された。
 床に横たわったリノセントを、同僚の天使は濁った瞳で見下ろしている。
「おーい、入ってこーい」
 そう同僚の天使が声をかけると、外にいた天使二人の他に、一人の悪魔が入ってきた。
「案外あっさり捕まったな」
「こいつが間抜けで助かったよ」
「一体どういうことですか!」
 いまだ状況を理解しきれていないリノセントを見て、三人の天使と一人の悪魔は嘲笑を浮かべた。
「分っかんないかなー優等生サマには」
「俺らが好き勝手するのにあんたは邪魔なんだよ」
「規則がなんだ。秩序がなんだとうざったらしいうえに行動的で、全然動けなかったからな」
「せっかく俺らが絶対者になれる人間界に来たんだ。楽しまなきゃ損ってもんだよな」
 リノセントを捕まえた天使が一歩前へ踏み出し手のひらに力を集めだした。生み出された光球は眩いほどの光を放ち辺りを照らす。
「貴方達! まさか人間界に害なす悪魔に肩入れしていたのですか!」
「ようやっと理解が追い付いたか優等生サマ。誰だって特別扱いっていうもんを味わってみたいもんさ。それが人間界なら容易だ。だから、俺の快楽の邪魔をしないでくれよ」
「この裏切り者! 神の御命令に背くとは恥を知りなさい!」
「そーだ、そーだー」
 リノセントに向けられた光球が臨界点を突破しそうな光を発し今まさに放たれようとしたその時、緊張感のない間延びした声が場に響いた。
「誰だ!」
「俺だ~キック」
 力のない言葉と共に飛び降りてきた影は、悪魔と共にいた天使の一人に飛び蹴りを叩きこむと、もう一人の天使に蛙飛びアッパーを見舞った。
 悪魔は生き残りの天使のほうへ引き、悪魔の羽を顕(あら)わにして身構える。
「ちゃっちゃらーん。違反者はっけーん」
 もうもうと立ち込めた埃から姿を現したるは、コートのような黒装束に身を包んだレイズだった。
「お前! 一体何も――」
「コイツがどうなっても――」
 残りの天使と悪魔が言い終えるより早くレイズの黒装束が変化し、二人を縛り上げて電撃が流れ無力化された。
「お仕事完了~」
『ん~』とのびをしたレイズは天国と魔界への扉を開くと、倒した天使と悪魔をそれぞれの扉へ放り込んでリノセントを振り返る。
「いやはや不幸だったなリノセント」
 レイズは彼女の拘束を解くと身にまとっていた黒装束を翼に変じさせ、体内へと収納した。
「なぜここへ……」
「仕事だよ仕事。あー疲れた。うん疲れた。俺働いた、すっごい働いた。だから魔神のおっちゃんに言って二週間くらい休み貰おっと」
 黒装束の下に着ていた半纏で腕を組みながら一人うんうん頷くレイズに、リノセントはいまだ晴れぬ疑問をぶつける。
「一体貴方は何者なんですか。なぜここにいるんですか。というより自分の主に対してなんと慣れ慣れしい」
「はいはい、そんな一気に質問しないで。今簡単に教えるから」
 レイズは一つ欠伸をすると、『えーっと』と始めた。
「俺は裏でこそこそあくどいことしてる連中を取り締まってるんだよ。天使悪魔問わずにな」
「天使悪魔問わずに?」
「おう。魔神のおっちゃんと神さんから頼まれてな。そういう連中がいること自体は把握してるけど、任せられるのが俺しかいないって押しつけられたんだよ」
「ということは、今まで天使や悪魔を襲っていたのは」
「そ、表向きは問題起こしてなくて裏でいろいろやってた連中ってわけだ。こういうのは俺みたいのがいるって知られちゃやりにくいから、こっちも隠れてやんなきゃいけないんだけどね」
 よほど眠いのかそれとも常に眠いのか、レイズは大欠伸をする。
 リノセントは聞いたことを噛みしめながら、拳を硬くする。
「私は人間界が平和であるようこの任に就きました。なのに私は秩序を守るどころかそれを見抜くこともできなかったなんて」
 うつむいたリノセントから何やら零れ落ちるが、欠伸をするレイズの目には映らない。
「ま、そんな気にすんな。お前みたいな優等生ちゃんはそうやって真っすぐやってりゃいいんだよ。小ズルいネズミは俺のほうが処理するから。適材適所ってね」
 ポンポンとリノセントの頭を叩き、レイズは廃倉庫の出口へと足を向ける。
 しかしその場から動こうとしない彼女を見て、レイズはため息をついて彼女の手を引く。
「行きつけの屋台おでん屋で話聞いてやるから、そんな落ち込むなって」
「ひ、ひひひ一人で歩けます!」
 優しい言葉をかけられたからか、いきなり手を繋がれたからか、多少なりとも活力を取り戻したリノセントはレイズの手を振り払う。
 ものを考える余裕が戻ったからか、隣を歩きながらレイズへ一つ聞く。
「先ほど知られたくないと言っていましたど、私の記憶を消したりしなくていいんですか?」
「ん~? そりゃ必要ないだろ。あの話聞いてペラペラ喋るやつかどうか分からないほど、付き合い短くないだろ俺ら」
 レイズの言葉に苦笑するリノセントの顔には、もう気後れの色はなかった。