「ハロー、こんばんは」
呼びかけるため、挨拶をして歩き回る。声が隅々まで届くように、できる限りに声を上げて。
「ハロー、こんばん……うわ、驚いた」
暗い小道の先で、ランタンが宙に浮かび上がっている……ように見えたのは、壁の鏡に反射していただけだった。
その時私は何者でもないことで、何者かであった。
現状、現在、今この一時のことをここまで端的に綴っていいかは甚だ疑問だが、それでも形容しよう。
世界は滅亡した。
それはもう完膚なきまでに、それでいて驚くほどあっという間に。ふと「あれ、世界滅んじゃった?」なんて間抜けたことを口にしてしまうほどに。そしてそれを否定されない程度には、社会というものはらしい枠組みを無くしていたのである。
社会、世界。言い換えるなら人類の滅亡。正確には衰退。聞くところによると、世界人口の7割ほどが初期の混乱の中で犠牲になったらしく、星を埋め尽くすほど発生していた80億もの生命体は、今や数千万人へと桁が下りかけている。日本という国だけで見れば、生き残っているのは最早数十万人程度なのではないだろうか。頼みの綱だった行政は今やその形を無くし、文字通り形ばかりの政府広報を行うだけだ。
頼れるものの無くなったこの世界で、辛うじて生き延びていた自分は、生きている人を探して今日も彷徨っている。
「ハロー、こんばんは。どなたか、生きていませんか」
呼びかけに応えるものはない。今日は避難所として使われていた学校を訪れたのだが、どうも人の気配というものがなかった。廊下はところどころの塗装がはがれており、窓を閉め切っているせいで埃っぽい。教室を覗いてみれば木造の机はいくつか薪にされた痕跡があり、いよいよ世界の終末感を醸し出していた。
「ハロー、こんばんは。生きている人、いますか」
呼びかけに応えるものはない。虚しく反響する自分の声が、やけに間抜けに聞こえてくる。
結局、その日は人と会うことはできず、私はカーペットの敷かれた視聴覚室で日をやり過ごすこととなった。
翌日。念願叶って、私は人と会うことが出来た。
確か最後に人と出会ったのは一週間以上前だったので、念願も念願。願うを通り越して、祈祷と言ってもいいほどのことだ。
「ハロー、こんばんは、大丈夫ですか」
「は、大丈夫に見えるかね」
その人はフェンスを背に倒れ、息も絶え絶えの様子であった。悲鳴じみた雄たけびと大きな悪態を聞きつけたときには、既にこんな惨状だった。腕や足首には隠し切れないほどの傷跡。肩口からは鮮血が溢れており、壮絶な光景に思わず生唾を飲みこむ。
「ご覧の通り、化け物に噛まれてしまった。世界がこうなって数年耐えたが、こうも終わりがあっけないとはね」
「えっと、お水飲みますか」
「……君、空気読めないって言われないか」
若干の呆れをこちらに向けつつ、いただこう、とその人はビン詰めの水を受け取る。一口、二口と含み、懐かしむように目を細めた。ほんの少しの水に、まるで何かを感じているかのように。
「ありがとう。あとは、人類の復興でも祈って眠るとするさ」
「これだけ吸血鬼が闊歩している中で、そんなことが叶うんでしょうか」
「違いない」
ふと外を見やれば、そこでは物言わぬはずの骸が、うう、ああ、とうわごとを呟きながら彷徨っている。
世界が滅亡した原因は、まぁ、あれだ。噛まれるとほんの二、三時間であれらの仲間入りをすることになり、そのまま一生動き続ける。
脳に依存せず動いているため銃で死なず、殺す気なら跡形もなくなるまで破壊するか、或いは心臓に銀の弾丸でも打ち込むしかない。ほどほどに知性があるため、罠を作ったり、集団で人を襲うこともある。最初の一人からネズミ算的に数を増やし、今やあれらは、当然ながら人類以上の数で地球を席巻していた。
「何でこんなになってしまったのかね。そもそも、あいつらどこから来たんだ」
「……遺言があれば聞きますが」
「なんだ、随分サービスいいじゃないか。金ならないぞ。価値も随分前に無くなったしな」
「どうせ死ぬのなら、少しくらい安らかでいたくはありませんか」
「死神みたいな口ぶりだ。それか司教様か」
時間もない。どうせならリラックスしてくれた方が、自分としてもありがたかった。
「ああ、ここは、私の生まれた土地でな。ガキの頃から大嫌いで、ずっと出て行こうと思っていた」
「出ていかなかったんですか」
「……出て行ったさ。でもこの辺が被害に遭ったって報道を聞いた時、真っ先に戻ってきちまった。顔も見たくない昔馴染みたちがあんな風になって、親も、兄も、ずっと前に死んだ」
遠いものを見るその姿は、どこか賢者のようで、どこか愚かだった。悟りを開いているようで、自分はそれが悟りでないことは知っていた。
「人生ってのは呪いの連続だな。どれだけ見た目を弄っても、どれだけ努力しても、過去が消えない。夢中で切り離そうとしても、頭の奥の奥に、ずっと付き纏ってきやがる」
「そう、でしょうか。そうですかね」
「言われてる間はわからない。そのうち、言いたくなったときにわかる」
それだけ口にして、その人はふぅと息を吐いた。それ以上、遺言らしい言葉を発することはなかった。遺言らしい言葉は、本当にそれで終わりだった。
「お前、何日か前も人を探してたな」
「ええ、人に会いたくて」
「こんな夜中にか」
それは正論だった。いや、或いは糾弾であったのだろうか。
「夜はあいつらの動きが活発になる。昼に探せばまだ人がいるだろう。私みたいなはぐれ者じゃない普通のやつが」
「嘘じゃないですよ」
「だから訊いてるんだ。正気じゃない。あんな風に声を出してたら、普通襲われる」
「襲われませんよ」
自分は。
だから、正気だ。
だんだんと、相手の瞼が落ちていく。おそらくは限界だ。今度は、こちらの話でも聞いてもらうことにしよう。
「好きな人がいたんです」
生まれて初めて、人を好きになった。見つめるだけで胸の奥がきゅうっと締め付けられるようになって。愛おしくて、恋しくて。
『あの子が欲しい』なんて願ってしまった。
「直接血を吸ったらああなるなんて、知らなかった」
もう、聞こえていない。意識が混濁しているのか。寝息とも呼べない奇妙な息が、その口から漏れている。死ぬ覚悟を決めた人間を騙すのが酷く容易いことを、私はこの数年で学んでいた。
「薬を飲ませると、血がまずくなって嫌なんですけど」
手段は選べまい。その日焼けした首筋に、白い牙を突き立てる。紛い物のする繁殖ではなく、原型(オリジナル)の吸血鬼として。ある日我欲のために人にそうしたのではなく、ただ今日を生きていくために。義務的に。
明るい夜の中で、くちょ、くちょ。辛うじて人間であったものの血を啜る音がこだまする。
世界は滅亡した。誰のせいかと言われれば、自分のせいである。
「……もっと新鮮な血が飲みたい」
血を吸われただけの出来損ないとは違って、人類がいなくなれば食事の出来ない吸血鬼は死んでしまう。唯一そうせずに済む献血による血液提供は、今の人類には望めまい。そもそも直に飲む味を知ってしまった以上、今の自分に輸血パックでの生活が我慢できるとも思えなかった。ならば生きるために、数少ない生きている人を殺さねばならない。
私のせいで、絶滅へ向かい続ける人類。人類の絶滅によって、滅亡してしまう原型(オリジナル)の吸血鬼(わたし)。
これは、私の盛大な自爆話である。
そのうち動き始めるだろう同族擬きを横目に、私は生きている人を探して再び歩き始めた。