隙間ハート

短編/練菓子

 

 埋めてしまいたくて、たまらない。

 私の心には、ずっとどうしようもない隙間が空いている。

 昔から、神経質だとか、こだわりが強いだとか、そういうことはよく言われてきた。引き戸は中途半端に閉まっていたら気になってしまうし、家具と家具の間はぴっちりくっつけるし、雫が垂れている水道とか、開いたままの水筒の蓋とか、ひび割れたグラウンドの土とか、ふと地面に見つけた蟻の巣の穴とか。そういうものを見るときっちり閉めて、隙間なく埋め込んでしまいたくなるのだ。

 ガタ、ガシャン。ゴト、トトン。

 揺れる列車に囚われて、私は行く。他でもない、今この胸に空く隙間を埋めるために。遠路はるばる、電車を五本も乗り継ぐ必要のある故郷まで。

 今でも覚えている。あの息苦しさ。そして手に残る感触と、拭えない、一生忘れることのないだろう温度を。

 

 私の中学校は、良くも悪くも田舎の学校でした。

 生徒は全学年を合わせて百人足らずで、学年にクラス分けなんてなくて、なんなら、配属の教員も十数人程度。学校で面識のない相手なんていうのは、新年度が始まって三ヵ月もすればほとんどいませんでした。

 生徒たちは常に暇を持て余していて、生徒間の恋愛という一大イベントが起ころうものなら、噂は光よりも早く駆け巡り、三日で全校生徒が周知しているなんてこともざらにありました。

 そんな学校の小さな名物は、校庭に生える大きな桜の木。春には満開の花を咲かすこともあって、休み時間や放課後には憩いの場所として生徒たちに人気がありました。勿論、告白もここで行われることが多く、そのせいで聞き耳を立てられ、噂が広まるなんてことも日常茶飯事だったのですが。

 まぁ、そんな場所で。ひとりの先生とひとりの生徒が出会ったのは、必然というべきか、偶然というべきか。はたまた、運命とでも呼んでみましょうか。

 その日のことは、私にとっては忘れられない出来事となりました。

『どうして、穴を掘っているんですか』

『ああ、いえ。部室で飼っていた魚が死んでしまったもので。ゴミ箱に捨てるのは、なにか違うような気がして』

『……どうして、素手で?』

『そうした方が、愛着が沸くじゃないですか』

 くしゃり、と誤魔化すような笑いが、どうしても気になりました。顔がタイプだとか、声が好きだとか。そんな要素はどこにもなかったのですけど。でも、その一点だけには。どうしても目が惹かれてしまって。

『綺麗な手です。傷つけるのは、勿体ないですよ』

 人見知りだった私が他人の手に触れたのは、記憶している限りそれが初めてのことでした。

 とても、冷たい手だったのを憶えています。

 

 電車は、ほとんど貸し切り同然という有様だった。横長の席が六つある車両には、私の他に老婆が一人と会社員らしき中年の男性がぽつぽつと点在しているだけで、それは駅をいくつ訪れても大した変化はなかった。私が中学校にいた頃はここまでではなかったが、今日が平日ということもあってか、或いは電車の行く先に大したものも無いからなのか、恐ろしいほどに人は少なかった。電車の存在意義を疑うような人口密度に、私の隙間は少しだけ小さくなる。

 目的地は、あと三駅とトンネルを挟んだ先。道中、電車が飲み込んだ囚人は三人ほどだった。

 

 手が好きでした。冷たくて、あたたかくて。人の温度を感じさせてくれるから。なん通りもの握り方があって、握り方によって意味合いも変わってきて。何より、指が五本あるというのがいいです。いろんな形になりますし、なにより様々な道具が扱えます。

 人間とサルの明確な違いは、親指の有無なのだそうです。親指を有する人類は、たったその一本多いだけの指で扱える道具の幅を大きく広げ、今に至るまで進化してきました。

 私は、人間に生まれて。五本の指を持って。冷たいこの指で穴を掘ることも、埋められることにも、とても感謝しました。

 

「……着いた」

 寂れた駅の看板と、かろうじて電子マネーに対応している改札しかない無人駅を抜けると、そこには時が止まったかのようにほとんど変化のない、記憶通りの街並みがあった。と言っても、街、と表現できるのはこの駅付近くらいのもので、もう一キロは遠くに行けば、村という表現が正しいほどの農村地帯が広がっていることを私は知っていた。

 古くから酒の鋳造で栄えたこの町は観光資源自体には事欠かない。それもあってか、街自体にはさほど寂れた空気はなかった。外から訪れる分には、ここはきっと長閑な観光地としか思えないだろう。内から見れば、息苦しさすら覚える鎖国国家同然なのだが。

 やる気のない露店の立ち並ぶ駅前の商店街通りに目もくれず、脇道に逸れ、山を目指して歩き出す。ブロック塀と木造の家ばかりが視界を支配する高齢者ばかりが住む閑静な住宅通り。記憶を頼りに家と家の隙間を縫うようにして歩いて、ほんの十数分。

 

 目的地への到着は、拍子抜けするくらいにあっという間だった。現在地の住所からも、記憶している位置からも。その場所が目的地であることは、どうやら間違えようもないようだった。

「……ニュースくらいにはなるとは思ってたけど、まさか廃校になってたとは」

 中学校どころか、教室も、校舎も、中庭も、校門も、何もかも平らになって。桜の木も伐採され、そこにはもう、学校の面影などどこにもない、だだっ広い土地が覗いているだけだった。

 聞くところによると、地元の有力者がこぞってこの学校を潰そうと圧力をかけたらしい。田舎というのは怖いもので、少し足を伸ばせばもう一つ学校があったこともあり、呆気なく廃校が決定してしまったのだそうだ。看板を見てみると、新たに老人ホームが建設されるのだという。神聖な学び舎を取り壊した果てが、空虚な老人のたまり場とは。大方、観光地に曰くのついた学校があるという事実を疎ましく思ったのだろう。それならせめて、桜くらい残してくれてもいいではないか。

 私の隙間は埋まったけれど。やはり、実際に目で見たかった。

「綺麗に、咲くと思ったのに」

 

 私は、学校を去った。

 ここには何もなかった。

 ここでは、何もなかった。

 恋心の一つも抱けない殺風景なこの場所で。

 ある教師が、生徒に乱暴を働いて行方不明になる。

 

 そんな殺人事件など、起こったはずもなかった。