「…なぁ、実は、相談なんだが…」
知っている。私に相談をしたその顔は、よく知っていた。子供のように爛々と輝く目が、恥じらいで紅くなった頬が、こころの全てを物語っている。
「俺、好きな子出来たんだ」
君が人生で、三度目の恋に落ちてしまったことを。
「はい、でこれが新しい彼女の写真、と」
「恐ろしい速度で人の携帯アルバムを覗くな!」
彼と話す場所はいつものファミレスチェーン。相にも変わらずコーヒーを頼み、複雑な気分で彼の話に浸る。
「今までの子とはなかなか違うじゃん。黒髪ロングの落ち着いた子が至高って言ってなかった?」
新しい彼の彼女は、今までとは違って少し明るい感じの子だった。髪も茶髪でポニーテール。彼の好みとは割と外れている気もする。
「いやぁ、こう。二回もダメだったから新しいジャンルに手を染めてみようかなぁ、なんて」
「うーん。清々しいぐらいに最低な女の敵」
邪魔な黒髪を耳にかけ、コーヒーを一口啜る。喫茶店のものとは違う雑多で量産された香り。四年前からずっと変わらない苦みを、けれどそのまま気にせず嚥下した。
「…………嫌いだな」
思わず顔を顰める。そこら辺のインスタントのがまだマシだろう。家で一人淹れるドリップとは比較にならないし、泥水でも啜っているような錯覚にさえ見舞われる。カップをソーサーに戻し、舌を出した。乱雑に置かれたティーカップから、数滴のコーヒーが受け皿へと溢れ落ちていた。
「それいつも言ってんな。不味いなら頼まなきゃいいのに」
「馬鹿。何も無い状況で惚気話を聞いたらわたしゃ糖尿病で死んじまうよ」
「だからって不味いものを頼まなくてもいいだろ。……そんなにか……?」
疑問符をコーヒーに浮かべて啜り、首をかしげる彼。舌でも店でもなく、問題は飲むきっと相手だろう。……彼以外と、ここに来たことはないけれど。
(髪、染めるかなぁ)
彼のスマホを片手で弄りながら、そんな事を考えた。両親の弁明が大変になりそうで漏れかけた溜息を、曖昧な黒で再び塗り潰す。
「てかさ」
「ん、何?」
「お前はどうなんだよ、そのあたり。モテるんだろ?」
身体が固まった。持ち上げかけていたカップからコーヒーがまたソーサーに滴り落ちる。体の芯が熱くなるような、すぅっと背筋が冷えるような。一瞬の浮遊感は、思いの外堪えるものだった。
「んん……しかしこういったものが好みだったとは、十年以上の仲である私でも見抜けなかったよ、君」
「ちょっと待て!健全な男子高校生のスマートフォンを触りながらその台詞を吐くな!何か残してなくても不安になるだろ!」
教授然と言い放った言葉に、慌ててスマホを取り返そうとする彼の腕をかわす。何度か攻防を続けて、彼がスマートフォンを取り返した。
「……あっ」
一瞬触れた指先が、手持ち無沙汰になって空中を彷徨う。数秒の躊躇いの後に沈黙という栄光を手にしたそれは、再び手元のカップへと不時着した。
「まぁ、いいか。返したげる。どうせあんたのことだし、髪型とかジャンルで選んだわけじゃないんでしょ?」
「そりゃそうだけど」
知っている。嗚呼、知っているとも。君がそんな簡単に恋に落ちることがないことも、人のことをジャンルなんてもので区別しない事も。私はよく知っている。君の彼女でも知らないことを私は知っていて、君の彼女よりも君を理解している。
…なら。
これだから、コーヒーは外せない。運ばれてきた二杯目で、湧き上がるヘドロを胃に流し込む。まだコーヒーが熱かったのか、胸の奥がチリチリと焦げる感覚が体を苛んだ。少し咳き込む。
「…で、どうなんだよ実際」
「ん、何が?」
「だから、お前がモテるって話だったろ。好きな奴とかいねぇの? お前、中学の頃告白されまくりだったじゃんか」
話題を逸せていなかったらしい。何かと物覚えが良い幼馴染様に、思わずため息が漏れそうになる。
「高校にもなったら人気は冷めるって。四、五人に告白されたくらいで他は何にも」
「男の尊厳をかけた告白を程度で済ませやがったよ。五人も充分多いだろ。やっぱモテんだよ、お前」
私の口から、ついに堪えきれなくなったため息が、二つ、三つと漏れ始める。褒め言葉のくせに、喜びと無縁とは。
「好きな奴は?」
「ん?」
「好きな奴とか…いないのか?」
彼の瞳が、不安そうにこちらを見つめてくる。その表情に隠されているのは、お互いに恋人ができることによって、異性の親友という関係が崩れることへの恐怖、だろうか。或いは……
「──そんな顔しないで。私は付き合うことなんてないよ、多分」
コーヒーを一呑みしてそう告げ、暫く彼と目を合わせる。彼の黒い瞳孔が動きはじめたのは、随分時間が経ってからだった気がする。
「…そうか。なんか、悪かった」
「気にしないでいい。じゃ、冷やかしも終わったし私帰る。彼女さん、幸せにしてやりなよ」
「そのつもりだ」
私はスクールバッグを肩にかけ、自分の支払いを終えて店外に出た。
カップの中身は、もうすっかり無くなっていた。
幼馴染である私が初めてその顔を見たのは、大凡幼稚園の頃に遡る。
クラスのマドンナ的存在。そんな彼女へ君がその表情を向けていた。それと同時に、その表情が恋慕だと知った。小学校で彼女に恋人がいると噂が流れ、彼が諦めた時のことはよく覚えている。それが原因でモテたいとサッカーを始めたのはどうかと思ったが。
次の恋は、中学生の頃だ。彼の部活が終わるのを待っていた私は、久方見ることのなかったその表情を見ることになる。その時は丸一日引き篭もった。真っ先に心配してくれたのは両親でなく彼だったから、逃げるのもこのときやめた。コーヒーを飲み始めたのはこの頃だ。しばらくして、サッカー部に所属してそれなりに人気のあった彼の恋は実った。計二年と三ヶ月。中学を卒業する頃になって、ようやく彼の関係は終了したらしい。呼び出されたあの場所で『本気で好きだった』と泣くのを慰めたのだった。
そして今、彼の三度目の恋が始まった。同学年らしい彼女との仲の進展は早く、直ぐにでも告白しそうな雰囲気で、実際そうなった。十二年間、届かない想いをほっぽって。
君は気づかないのだろう。
私がコーヒーを頼む理由も。
質問に私が答えていないことも。
でも、それでいい。
大切な人の幸せを願うのは当たり前のことだ。好きな人には幸せになって欲しい。なら私は、せめてもの努力をするだけだ。彼の幸せの方向が、いつか望む方向へ向いてくれるように。
きっと彼に気がつかれない努力を、一生私は続けていくのだろう。
「すみません。髪、染めたいんですけど」
彼好みだった黒い長髪をたなびかせて、私は美容院の扉を叩いた。