久々に、妻と二人で食卓を囲んでいる。目の前に座る妻は品の良いワンピースに身を包んでいて、あの頃と同じ、若々しい姿のままだ。
「あなたと一緒に食卓につけるなんて、いつぶりかしら」
「いつぶりだろうね。子供が生まれてからはもう一緒でなくなったから……三十年ほど前になるのかな」
「そんなに前だったかしら。まったく、時間の流れって早いものね」
「そうだね。ごめんね、僕ばかりがこんなにおじいちゃんで」
私が謝ると、妻は眉を下げて笑った。
「ふふ、いいのよ。あなたがいてくれるなら、どんな姿でもいいの」
「そうかな。そう言ってもらえると嬉しいけど……そういえば、あなたと外に食事に行くこともあまりなかったよね。ましてやフレンチなんて、初めてだったような気がする」
結婚してから、妻と外食をした記憶はほとんどない。いつも家で、妻の手料理を食べていた。
「確かに、私もフレンチなんて数えるほどしか食べたことなかったわ」
「あなたは昔から体が弱かったし、あまり外に出ることもしなかったからね」
「そうねえ……そう考えると、なんだか申し訳ないわね。一度くらい、おしゃれな場所でご飯を食べてみたかったわ」
「いいんだよ。今、一緒にいられてるんだから」
ウェイターが出てきた。その手に白い陶器の皿が一つ。彼は私たちのもとに来ると、その皿を私の前に置いた。
「お待たせいたしました。こちら、オードブルの、グレープフルーツとたこのマリネでございます」
鮮やかな赤と黄色が、白い皿の上に映える。
「ありがとう……ああ、美味しそうだね」
「そうね、とても美味しそう。さ、早く食べてみてよ」
その言葉が終わるのと同時に、耳の奥でチャイムの音が聞こえた気がした。
妻との出会いのことは昨日のことのように思い出せる。私が大学の廊下で話しかけたのが始まりだ。
私と妻は同じ大学に通っていた。同じ人文学部で、私は言語学のゼミに、妻は文化人類学のゼミにいた。接点は全くない。ただ、彼女の卒業論文の発表を、私が聞きに行ったのだ。
廊下で初対面の男に呼び止められた彼女はいたく不審げな目を私に向けていたが、私が吃りどもり彼女の発表が面白かったこと、テーマが興味深かったことなどを伝えると、徐々に笑顔を見せてくれた。
彼女は照れくさそうに笑って「あなたの発表も面白かったわ」と言ってくれた。彼女も私の卒論発表を聞いていたのだ。
こうして私たちは度々自分の研究についてを語り合う仲になり、大学卒業と同時に交際を始めた。
「あなたの卒論の題、『世界の黄泉戸喫』……だったっけ? 日本神話のイザナギとギリシャ神話のオルフェウスの話を比べるものだったよね。確か、どちらも奥さんが先に死んでしまって、あの世に迎えに行く話だったと思うけど……」
私が聞くと、妻はこっくりと頷いた。
「ええ。私の場合は結局、ヨーロッパからシルクロードを経由してアジアに伝わった神話が形態を変えていった……って結論にしたけどね。そういえばあなた、黄泉戸喫のあらすじ、ちゃんと憶えてる?」
「それはあんまり。もともと、神話はほとんど読まないからね。あなたの卒論でかじったきりだよ」
「そんなら説明してあげる。国生み神話は分かる? イザナギとイザナミ……」
「ああ、それは知ってる。淡路島を作る話だよね」
地元の話だから、少しばかりその話は知っている。私の言葉を聞いた妻は、嬉しそうに頷いた。
「そうそう。それが分かるなら話は早いわ。ええと……あのあと、二人はたくさんの神様を産むの。けれど、火の神様を産んだとき、イザナミは体中に火傷を負って死んでしまう。それを悲しんだイザナギが、あの世までイザナミを迎えに行く、ってお話よ」
「あれ、そんな話だったっけ。聞いてからかなり経つから、ちょっと忘れてしまっているなあ……」
妻は卒論に神話を選んだだけあって、日本神話に詳しかった。私はそんな妻の話を聞くのが好きだった。
「でも、イザナミはあの世の食事を食べてしまったから、この世に戻ることはできなかったの。それでもどうにかして戻れないか聞いてくるから、それまで私の姿を見ないでくださいとイザナギにお願いした」
「へえ……なんだか嫌な予感がする」
「ご明察ね。イザナギは妻の……イザナミの姿を見てしまったの。そこにいたのは、腐りきって昔の面影なんてどこにもなくなってしまった、化け物のようなイザナミ。結局イザナギは怒り狂ったイザナミに追われながらもこの世に逃げることができました、って話なんだけどね」
元来私は小心者で、悲恋だとかいう話はあまり読めない。最後まで聞いて、ようやく私がその話を詳しく知らなかった理由に気付いた。
「なんだか救われない話だよね。イザナギはどうしてイザナミの待てを聞けなかったのかな」
「男なんて、そんなものよ。ギリシャ神話だって、男が言いつけを破ったばかりに妻は帰ってこられなくなったんだから」
「ふうん……僕なら、あなたがどんな姿になっていても逃げないけどね」
私が言うと、妻は意地悪げに笑った。
「化け物でも?」
「化け物でもだよ」
「やけに自信満々ね」
「だって、そうでなきゃあなたにプロポーズなんてしていないじゃない」
「プロポーズ……ああ、あのときのね! あのときのあなたったらなかったわ!」
妻はまるで幼い子供のように上機嫌に手を叩いた。私はひどく気恥ずかしくなって、手を振って眉間に皺を寄せた。
「ちょっと、笑わないでよ。あのときはひどく緊張してたんだ」
近づいてくる革靴の音に、私は少し安堵した。
「失礼いたします、ベーコンと玉ねぎのコンソメスープでございます」
「ああ、すまないね。どうもありがとう」
「空のお皿はお下げしてよろしいですか」
ウェイターが皿に手を伸ばす。
「うん、お願いします。とても美味しかったよ」
私が言うと、ウェイターは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、シェフに伝えさせていただきます」
ウェイターが足早に去っていく足音を聞きながら、私は手元のスープに目を落とした。
「これも、美味しそうだ。ここの料理は味が良いね」
「本当? よかったわ。さあ、それも早く食べてみて」
妻に促され、私はスープを口に運んだ。
プロポーズしたのは、私だった。交際を始めて一年が経った頃、妻を呼び出して指輪を渡したのだ。
ひどく緊張してしどろもどろになったのを、妻はずっと面白がって揶揄ってきた。
あの日のことは、良くも悪くもとても忘れられそうにない。
子供のような笑顔で指輪を嵌める妻の姿は、瞼の裏に焼きついている。
「……私、あのときもらった指輪が何より大事な宝物だったのよ」
「そうなの? ……そういえば、あの後色々あなたに贈り物をしたけど、あなたは結局あの指輪をいつも着けてたね」
「だって、あなたが初めてくれた指輪なんだもの。私の一番の宝物よ」
「そうだったの? やあ、なんだか照れ臭いなあ」
照れ隠しに頭を掻く。格好良いプロポーズにはならなかったが、妻が喜んでくれていたのなら、それでいいかなんて考えていると、ウェイターがやってきた。
「お待たせいたしました、こちら、肉料理……アントレになります。牛フィレステーキの赤ワイン仕立てでございます。空いたお皿はお下げいたします」
「はい、ありがとう」
私が軽く頭を下げると、ウェイターもにこやかに会釈をして、皿を持って下がっていった。
「おしゃれな名前の料理ばかり出てくるわね」
「そりゃあ、そういうものがフレンチなんでしょう。僕はあまり詳しくないけど……」
「私もフレンチには明るくないけど、おしゃれな名前のものって、だいたい美味しそうに見えるわよね」
「確かに……そういえば、どうしてあなたとあまり外食をしなかったんだっけ」
何気ない私の問いに、妻はふと目を見開いた。
「どうして、って?」
「だって、思えば長いこと時間はあったんだから、どこかで外に食事に行くチャンスはあっただろうに……」
「あら、忘れちゃったの? あの子が生まれたとき、私……」
妻が呟いた瞬間、視界がパチリと瞬いた。
そうだ、妻は、あのとき。
鼓膜にこびりついた赤ん坊の泣き声が、瞼の裏に焼きついた薄暗い病院の廊下が、今も私の脳裏に残っている。
「……手は、尽くしました……赤ん坊は無事でしたが、奥様のほうは……」
いかにも真面目そうな年嵩の医師の言葉は、私の脳をぐわんと揺らした。
「出血が多く、血圧維持が困難になったんです。お子さん……息子さんのほうは、なんとか……」
自分が自分でなくなってしまったような気がした。
「……手術に体が耐えきれなかったんでしょう。元から体の弱い方だと伺ってましたから……」
その言葉が終わらないうちに、私は医師に掴みかかっていた。ぼやけてよく分からない視界のまま、医師の襟首を掴んでいた。
「でも、あなたは! あなたは、きっと力を尽くすと言ってくださったじゃないですか……!」
医師は至って冷静で、私ばかりがこんなに動揺していて、その状況が腹立たしかった。
「僕は、あなたを信用して妻の命を預けたんです! 彼女を喪ったら、僕は、僕はどうしたら……!」
泣き崩れそうになった刹那、医師の声が私に叩きつけられた。
「それでも、あなたの子供は生きているんです!」
ハッとした。私は思わず息をするのも忘れて、目の前に立つ医師を見上げた。
「あなたに残されたものはなんですか。奥さんが命と引き換えにしてまで産んだ息子さんじゃありませんか。子供は一人では生きていけないんです。あなたが護らないでどうするんですか!」
鈍器で頭を殴られたような気がした。
そうだ、あの子が。
たった一人になってしまったような顔をしている暇などないのだ。私には、あの人の遺した子がいる。
彼は、生きている。
いやに軽い妻の骨壷と小さなちいさな息子を抱えて、私は家に戻ったのだった。
「……あなたは、ずいぶんと小さくなってしまったんだね」
独り言のように言うと、妻は小さく笑った。
「ええ、そうね。燃やされて、あんなに小さな壺に収まってしまったわ」
妻の骨を墓に入れる気にはなれなかった。生まれたばかりの息子と灰になったばかりの妻を代わる代わる眺めては、私は悶々と一人考えた。
「あのとき、喜べばいいのか悲しめばいいのか、分からなかったんだ。あなたは死んでしまったけど、あの子は無事だった。あの子は無事だったけど、あなたは死んでしまった……」
そう言うと、妻はぴしゃりと言った。
「とにもかくにも、あの子が無事に産まれたことを喜べばよかったのよ。それに、母子ともに安全は保証できないと言われたでしょ」
「それは、そうだけど……」
「でしょ。それとも、何? あの子より私に生きててほしかった?」
「そんなことは……だってあの子はあなたの忘れ形見でしょう。初めてあの子に会って、あの子が笑って僕の指を掴んだとき、ああ、この子は僕が護ってあげなきゃいけないんだって思った……でもやっぱり、二人であの子に対面できないのは悲しかったよ」
叶うはずのない甘えであることは分かっているが、言わずにはいられなかった。
「……ごめんね、最後まで一緒にいられなくて。あなたと一緒に、あの子の成長を見届けてあげたかった」
妻は申し訳なさそうに眉を下げ、そう言った。
「……男手ひとつであの子を育てるのは、楽なことではなかったよ。あなたがいればどれだけよかったかと……あの子と喧嘩した夜はいつも、あなたの写真の前で後悔していた」
「それでも、あの子は立派に育ったわ」
「……そうかな」
規則的な足音が聞こえてくる。いつの間に私たちのテーブルまで歩いてきていたウェイターは、にこやかに皿をサーブした。
「デセールのパンナコッタでございます。こちら、いちごのソースをかけておりますので絡めてお召し上がりください」
「ああ、ありがとう……」
絞り出すように礼を言うと、ウェイターは
「こちら、お下げいたしますね」
と一言言って、皿を手に取った。
ウェイターが皿を下げてから、私はふと言った。
「あなたがいなくなってから、慌てて料理を勉強したんだ。掃除機のかけ方や洗濯機の動かし方も……あなたに任せきりだったからね」
「そうねえ、ふふ、見てみたかったわ、キッチンに立ってるあなたの姿」
私は慌てて両手を振った。
「いやだよ、大して上手く料理を作れたわけでもないんだし。あの子も最初は嫌な顔をしていたんだ。中学に上がるくらいになって、ようやく美味しいって言ってくれるようになってね」
「あら……立派に良いお父さんができてたじゃない」
「いや……僕はとても、良い父親なんかではなかったよ。君がいなければ、何一つ満足にできやしないんだ」
私が自嘲的に笑いながら言うと、妻ははっきりと首を横に振った。
「いいえ、立派よ。私が産んだあの子を護って育てようと思ってくれたんだから、それだけでもう、あなたは誰より立派な人よ」
「……あなたは、そう言ってくれるけどね」
私は、それだけ言って言葉を切った。妻には、どこまで話すべきだろうか。
息子の苛立ったような声を、今でも憶えている。
「だからさあ……もうほっといてくれよ!」
ひとり親だから、と色々と気負ってしまっていたことは否めない。私はあの子に口うるさくあれこれと言いすぎた。家族仲は次第に険悪になり、口論が絶えなくなった。
その日の口論も、本当に些細な一言から始まった。ヒートアップした末に出たあの言葉を、私は今も後悔し続けている。
「お前が母さんを殺したんだろうが!」
「……は?」
ひどく耳鳴りがした。
頭の中は真っ白だった。
息子の表情が、驚愕から徐々に怒りに変わり、それから全くの無に変わっていく。
「……頭、冷やしてくる」
私の制止も間に合わず、息子はリビングから立ち去った。
車の鍵がなくなっていることに気付いたのは、息子が出ていってすぐのことである。それでも根は真面目な彼のことだ、事故などを起こすことはないと思った。
息子はそのまま、帰ってこなかった。
「今となっては、本当にくだらない口論だったんだ……発端がなんだったかも、もう思い出せないくらいに」
一度口を開けば、もう止めることはできなかった。後悔と怒りと悲しみが、ない混ぜになって脳内を支配する。
「……あなたの忘れ形見のあの子も、二十歳を迎えた年にこの世を去ったよ。自動車の炎上事故を起こして、体中に酷い火傷を負ったんだ……」
あの口論の後、次に会ったのは警察署の安置室だった。
居眠り運転のトラックが突っ込んだのだそうだ。ガソリンが漏れて、息子の乗っていた車は大炎上した。火だるまになって焼け死んだそうで、覚悟して見るようにと何度も念を押された。
「……あの子の体、見たの?」
「そりゃあ、見たよ。あんなことを言ってしまったんだとしても、僕はあの子の父親だもの」
「そう……」
ただの肉の塊になってしまった息子を見たとき、何もかもが終わってしまったような気がした。
「言ってはいけないことを、心にもないことを言ってしまった……あれが最後の会話になると知っていれば、あんなくだらない口論なんてしなかったのに……!」
後悔ばかりが募っている。二十年近く拭い去ることのできなかった感情の蓋が、ぽっかりと取り払われてしまったような気がした。
「ひとりぼっちに、なってしまった……」
妻は何も言わなかった。私一人の荒い呼吸の音だけが、耳鳴りがするほど静かな室内に響いていた。
ウェイターが紅茶を持ってくる。いたく鷹揚な革靴の音を聞きながら、私は急速な喉の渇きを感じていた。ひどく泣きたい気分だった。
陶器の触れ合う音がして、目の前に白いティーカップが置かれた。ふわり、と湯気が頬を撫でる。
「食後にハーブティーを。身を焦がす後悔と一緒に、どうぞお召し上がりください」
ウェイターは私の顔を覗き込むように、にっこり笑ってそう言った。
はっとして顔を上げれば、妻も笑っていた。
「……まさか」
ハーブティーの香りは、どこか甘ったるくて煙たかった。
ウェイターは軽く会釈をして、デザートの皿を持って去っていった。
「……紅茶って、外国では『隠された真実』という意味があるそうね」
ようやく私が一口飲むと、妻は
「さ、ようやく明かされた真実のお味はいかが?」
と囁くように言った。
ティーカップから立ち上る香りが仏壇に供えられる線香のそれと全く同じであることに、私はそのときになってようやく気付いた。
「あなたは……最初からそのつもりで」
「私はイザナミみたいな馬鹿な女じゃないもの」
ひどく冷淡な声だった。目の前に座る妻が、全く違う女であるように見えた。
「……どうして、イザナミを馬鹿だなんて……」
震える声で聞くと、妻はからからと笑った。
「だって、そうじゃない! 彼女は初めっから馬鹿正直にみんな話してしまったじゃない。何も言わなければよかったのよ。イザナギにも、同じことをさせればよかったの。そうすれば……ずっと一緒にいられたのにね」
震える手でティーカップをソーサーに下ろす。がちゃりと、思いの外大きい音がした。
「『黄泉戸喫』は、冥府のかまどで作った食事を、体の中に取り込むこと……つまり、あの世のものを食べること。口に入れたが最後、もう現世に戻ることはできないわ」
線香特有の臭いが、鼻腔を撫でる。
「……ね、美味しかった?」
あの頃と変わらぬ姿のまま、妻はどこか恍惚とした笑みを浮かべていた。