神凪

長編/菊田みやび

 

 友人に誘われて占い師を冷やかしに行ったら、「すみませんが帰ってください。これはとても手に負えない」と言われて追い返された。

「あなた、ここ数年でご兄弟を亡くされてるでしょう」

 ああそうだ、と返すと、占い師は深刻そうに頷いた。

「それ、それですよ。ご兄弟は連れて行かれましたね」

 占い師は私と友人を出入り口に追い立てながら、それだけ言った。代金を、と言っても「いりません」の一点張り。

「私にはどうにもできない。見ることしかできない。それなのにお金を頂くわけにはいきません」

 ぴしゃりと鼻先で扉を閉められて友人のほうを見たら、哀れみのこもった目で私を見ていた。

「すごいな。あのばあさんはよく当たるってんで俺もよく行くが、追い返された奴は初めて見た」

「お前は何か言われたのか」

「特には何も……あ、兄弟仲がよろしいんですねとは言われたな。それだけだ」

 友人はそれだけ言って、「それよりも」と私を見た。

「何かあったら、力にはなれないが、話を聞くくらいはしてやるよ」

「じゃあ今聞け」

「あ、うん」

 日曜日の昼間だというのでレストランやら居酒屋はどこも混んでいて、私は友人に相談料の菓子パンを買い与えて、二人揃って公園のベンチに座った。親子連れが多く、広場でバトミントンやバレーボールをしているのをよく見かけた。

 話の腰を折られるのが嫌な質なので、絶対に途中で口を挟まないことを約束させて、私はぽつりぽつりと話を始めた。

 

 十年前に両親が事故で死んで、私と弟たちは、子供だけで取り残されてしまった。私はそのときちょうど高校受験を控えていて、受験のストレスやら両親の急死やら弟たちの今後の心配やらで、しばらくの間はてんてこ舞いだったことを憶えている。

私は四人兄弟の長男である。次男と三男が双子の雅鷹と隼星、一番下に四男の笑汰と続く。

 遺された私たちは揃って、寄木職人をしている祖父の家に預けられた。祖父はいつも木と漆の匂いがした。昔気質でほとんど笑わない人だったが、嫌な顔ひとつせず私たちを引き取り、学費を出してくれた。

 

 それから三年して、今度は雅鷹が死んだ。生まれつき心臓が悪かったのだ。入退院を繰り返して、結局、病気は一度も回復せず、悪化の一途を辿って死んだ。

 それ以降、隼星は急に口数が減って、表情も乏しくなった。双子の兄を失ったことがよほど堪えたらしい。反面、笑汰は隼星に気を遣っているのか、よく喋り、笑うようになった。おそらく、笑汰なりに隼星を元気にしてやりたかったのだろう。

 そうして私が二十一になった年、隼星は十七で家を出た。隼星は高校に進んではいなかった。祖父の工房を継ぐと言い張って、担任を言いくるめてしまっていた。

 その頃には私はもう就職して、私たち兄弟は祖父の家を出て我が家に戻っていた。

隼星はあれこれと思い悩むようなことはできない質で、思いついたらすぐに実行に移してしまわなければ気が済まないような人間である。家を出るという宣言も、ひどく突然だった。

 

「一冴、これ」

 ある日の昼、隼星は白い枠の小さなタブレットのようなものをテーブルに置いて、私の反応を見るかのように、顔を凝視してきた。

「……なんだ、これ」

 私はようようそれだけ言って、隼星の顔を見た。隼星は思った反応でなかったのか、少し不機嫌そうに口をへの字に曲げている。

「デジタルフォトフレームっていうらしい。俺のスマホと連動してるから、撮った写真を送って映せる」

 そう言って隼星は電源コードをコンセントに刺し、すいすいとスマホを操作して、写真を一枚映してみせた。

「あ、これ、じいちゃんち」

「そう。こうやって映せる」

 何枚か写真を映してから、隼星はテーブルの横に置いてあるリュックをひょいと背負った。

「じゃ、行ってくる」

「待て、どこにだ。行き先を言え」

 しばしの沈黙。隼星は困ったように目を細めて、しばらくしてからようやく答えた。

「……アメリカ?」

「なんで疑問形なんだよ……パスポートは?」

「持ってる」

「書類は? 色々必要になるだろ」

「揃ってる。観光で非移民ビザも取った」

「九十日以上いるつもりなのかよ……」

 私は頭を抱えてため息を吐き出した。隼星の行動力を侮っていた自分を殴りたかった。

「……じいちゃんには言ったのか」

「いや、一冴から頼む」

「テメエで言えよ」

「絶対怒られるだろ。嫌だ」

 隼星は聞く耳持たず、といった様子でリュックを背負った。そして、まるでコンビニにでも行くかのような気軽さで、ひらりと手を振った。

「気が済んだら帰ってくる。じゃあな、一冴」

 それから隼星は年に一度、盆の頃に帰ってくるようになった。

 最初に帰ってきたときに祖父から雷を落とされていたが、なんとかのらりくらりとかわしてしまったようだ。

 週に一度ほどの頻度で写真は新しいものに変わる。そして時折思いついたように家に土産を送り、メッセージを寄越してくる。

 外国の地域に詳しいわけではないからどこに行っているのかはほとんど分からなかったが、ときどき映る有名な大聖堂やら観光名所やらで、ようやく私たちは隼星がどこにいるのか知ることができた。

 しかし、今はずっとだだっ広い野原やら、家畜や小麦やら、こぢんまりとした部屋の写真ばかりが映る。

 仕方がないから、どこにいるのか尋ねることもせず、帰ってくるのを待つことにした。

 帰ってから、好きなだけ質問攻めにすればいい。どちらにせよ、八月の中頃になれば、毎年隼星は帰ってくるのだから。

 隼星は基本、スケジュールを連絡してくることはない。帰国の連絡もない。それでも、毎年のことになるとなんとなく分かってくる。

 

 私の予想通り、盆を直前に控えた日の昼に、隼星は連絡もなく帰国してきた。

 しかし、「ただいま」と言うなりこう続けた。

「雅鷹が帰ってくるから、これから俺は帰らない」

 直感的に「やばい」と思った。私はひとまず隼星をリビングに連れて行き、二人分のコーヒーを淹れた。

 ついに病んだか、と思った。祖父に連絡すべきだろうか。何と声をかけるべきだろうか。

「……なんでまた、急に」

 それだけ聞くと、隼星は「急でもないけどな」とだけ言って、リュックの中からあれこれと土産を出し始めた。

 クッキーの缶に、スナック菓子の袋に、よく分からないタペストリーに、とにかく色々出てくる。

「ていうかお前、何してたんだ。野原と部屋の写真だけ寄越しやがって」

 私が言うと、隼星はあっけらかんと答えた。

「バルト三国回りながら、ホテルとか牧場とかで住み込みのバイトしてた」

「この写真は?」

「エストニアの小麦畑」

「エストニア……」

 私ばかりが質問攻めにしているのが気に食わないのか、隼星は不機嫌そうに「一冴はどうなんだ」と聞いてきた。

「何も変わりゃしねえよ。去年と同じだ」

「本当に?」

「何を疑ってるんだ。仕事だって特に変わらないし、何も言うことねえよ」

 そんなふうにして少しだけ会話をして、コーヒーを飲んで、隼星はクッキーの缶をひとつ開けて、私の口にクッキーを押し込んだりした。

「とりあえず……じいちゃんち、行くか。火野さんも、お前に会うの楽しみにしてんだ」

「……分かったけど」

 出した土産物をまたまとめて、隼星は複雑そうな顔をした。

「じいちゃんは毎年顔を合わせるたびに怒ってくる」

「そりゃ、お前が勝手に工房を出たからだろ」

 

 祖父の家には、古き良き日本家屋と、祖父の管理している工房がある。

 インターホンを鳴らすと、三十代ほどの男性が顔を出した。

火野さんである。

「どちら様……って、一冴か。いらっしゃい」

 火野さんは祖父の弟子だ。私たちにとっては、年の離れた兄のような存在である。祖父のことを「親父」と呼び、祖父の家に住んでいる。

 火野さんは、隼星の顔を見るなりにんまり笑った。

「おー、隼星、久しぶりだなあ。また背、伸びたか?」

「分からない。畑仕事を手伝ってたから、筋肉がついたのはあるかも」

「畑仕事なんてしてたのか。どうりで日焼けしてるわけだ」

 ぐりんぐりんと隼星の頭を撫でると、火野さんは私を見た。

「お前らが来たこと、親父に伝えてくるよ。多分、作業が終わったら戻ってくると思う」

「分かった。でも、こっちのことは気にしないでくれ」

 工房に引っ込んだ火野さんと入れ替わるようにして、笑汰が部活から帰ってきた。

「うおっ、隼兄帰ってきてたのか!」

「笑汰、久しぶりだな」

「なんで帰国の連絡くれないんだよお」

 笑汰は学校のカバンを放り出すと、飛ぶように隼星に抱きついた。隼星は嫌な顔ひとつせず、揺さぶられるがままになっている。

「土産がある」

「何?」

「サルミアッキ」

「なにそれ! 食べる!」

 差し出された黒い小さな塊を口に放り込んだ笑汰は、次の瞬間締め殺されそうなニワトリのような悲鳴をあげてキッチンに引っ込んだ。

「……何、食べさせた」

「サルミアッキ」

「なんだそれ」

「ゴムタイヤの味がする」

「ゲテモノじゃねえか。弟に食わすな」

 コップを片手に出てきた笑汰は、めそめそ泣きながら「まずい、まずい!」とひいひい言っている。少しかわいそうだ。隼星は上機嫌そうに口元を緩めている。

「それ、じいちゃんには食べさせた?」

「いや、殺されそうだから無理だ」

「あ、まずいってことは分かってたんだ」

 隼星は考えるような素振りを見せて少し目線を泳がせた後、ほんの少し楽しそうに笑った。

「でも……面白そうだ。ちょっと行ってくる」

 そう言うなり、菓子の箱を持って廊下に駆け出していく。足音はすぐに小さくなった。続いて、怒声がひとつ。それから、火野さんの笑い声。

 しばらくして、リビングの戸ががらりと開いた。顔を見せた人影に、笑汰が嬉しそうに「じいちゃん!」と声をあげる。

入ってきた祖父は、たんこぶを作った隼星を小脇に抱えていた。

「じいちゃん、仕事終わったのか」

「終わったわけねえだろ。こいつ、変なモン口に入れてきやがった」

「サルミアッキだ」

「久々に会うってのに、ジジイに何食わせようとしてんだ」

 祖父は隼星の頭を軽く小突いて、畳の上に下ろした。

「やっぱじいちゃんでも食べれないんだなあ」

 しみじみと笑汰が言う。祖父はやれやれとため息をつきながら、「次からは何なのか先に言え」と言って工房に戻っていった。

「じゃ、次ははちみつ飴入れてくる」

「次は美味いんだろうな」

「分からない。栗は不味かった。ガスみたいな味がした」

「じゃあ栗以外にしろ」

「うん」

 それから隼星はリビングと工房を何回か往復して、あれこれと祖父の口に菓子類を放り込んできた。

 しばらくして日が傾いてきた頃に、火野さんが「夕飯だぞ」とひょこりと顔を出した。献立はカレーと唐揚げ。隼星が帰ってきた日は、いつもこれだ。

 たらふく食べて、のんびりと寝る支度なんかを始めて、十時を回る頃に、目を瞬かせた笑汰がリビングにやってきた。

「一兄、隼兄、まだ寝ないの?」

「ああ、まだな。お前は明日も部活だろ?」

「うん。明日も早いし、俺そろそろ寝るよ。おやすみ」

 にこにこしながら手を振って、笑汰はリビングを出ていった。足音が遠のくのを聞きながら、私は隼星に言った。

「雅鷹を迎えに行くなら、俺も行く。お前一人に行かせたら、どこに連れて行かれるか分かったもんじゃない」

 私が言うと、隼星は微かに口元を緩めた。

「そんなに信用がないのか、俺は。流石に雅鷹を海外に連れ出したりはしない」

 言いながらも、隼星は足早に玄関に向かい、擦り切れたスニーカーを履いた。

「……一緒に来たいなら、来たらいい」

「……分かった」

 靴を履いて表に出ると、工房にはまだ灯りがついていて、窓が開いていた。窓際で作業をしていた火野さんが、顔を上げてこちらを見る。

「どこ行くんだ? こんな時間に」

 火野さんの声は固かった。私は何と答えるべきか少し考えてから、小さな声でようよう答えた。

「……雅鷹を、迎えに」

 火野さんは怪訝そうな顔をしたが、止めはしなかった。ただ、がたりと音を立てて立ち上がって、どこかに走っていくのだけ見えた。

 

 私は行き先など知らないから、ひたすら隼星の背を追いかけた。隼星はすたすたと夜道を歩き、やがてひとつの改札を通った。

 最寄りの小さな駅だった。

 祖父の家から十分ほどのその駅には、人っ子ひとりいなかった。

 ホームでぼんやりと海を見つめていると、雑音混じりのアナウンスが鳴った。

『……線に……行き……参ります……』

 ようようそれだけ聞こえたが、肝心なところは聞き取れない。

「一冴、これ、乗るぞ」

「え、これにか」

「うん」

 やけに古い電車だった。隼星に続いて乗り込んで、毛羽立ったパイル地のシートに腰掛ける。

「……なあ。どこ、行くんだ」

「んー……」

 私がいくら聞いても、隼星は歯切れの悪い返事をするばかりだった。仕方がないから、会話もないまま電車に揺られる。

 二つ目の駅で、隼星は「一冴」とだけ言って電車を降りた。私も続いて降りながら、そういえば駅名を聞いていなかった、とぼんやり考えていた。

「一冴、こっち」

 隼星は迷いなく連絡橋を渡り、反対側のホームの改札から外に出た。

「あっ、おい……!」

「早く! 置いてくぞ」

 潮の香りがしてよく見てみれば、改札の向こうには海が広がっていた。

 少し辺りを見まわして、私は隼星を追って連絡橋を渡った。

「なあ、改札は?」

「ここはいいんだ、そのまま出ても」

 足元が浮つくような奇妙な感覚に襲われながら、私は隼星に続いて駅を出て、海への道を歩き出した。

 

 一歩、二歩と行かないうちに、前を歩いていた隼星がふと立ち止まった。

「雅鷹!」

 隼星は嬉しそうに声をあげると、波打ち際で濡れている『何か』に足早に駆け寄った。

「久しぶりだなあ。迎えにきたぞ」

 暗闇に慣れた目でよくよく見てみると、それは人の形をしていた。

 長いこと水に浸かってぶよぶよになった人間、という例えがぴったりであるような気がした。というか、どこからどう見ても溺死体だった。体中に長い髪の毛が巻き付いていて、人相は全く分からない。

「一冴も、ほら、来い」

「……分かった」

 そうしてまた一歩足を踏み出した瞬間、視界がぐわんと歪んだ。目眩に耐えかねて二、三度瞬きすると、世界はがらりと変わって見えた。

 深夜の海岸は、途端に朝日の眩しい砂浜に様変わりした。溺死体のような肉塊はもうなかった。代わりに人が一人、そこにいた。

 あ、雅鷹だ。と思った。

 あの人型を見て何故そう思えたのか、自分でも分からない。

 でも、そのときの私の目には、あれは雅鷹にしか見えなかった。波打ち際に座る雅鷹は、私を見て嬉しそうに歯を見せて笑った。

「お、兄貴。どうしたんだよ、そんな泣きそうな顔して」

 あの頃と同じ体型をしていた。やけに真っ白で、不健康に細い。

 

 私は隼星と二人して雅鷹を挟むように波打ち際に座った。隼星は嬉しそうに微笑んで、あれこれと雅鷹に話していた。

 

 しばらくその話をじっと聞いていると、雅鷹はふと私を見た。

「で、兄貴はどうなんだ? 最近、何かあったか?」

「別に……これと言ってはないぞ。それに、さっき隼星があれこれ話しちまったからな」

「いいよ、被っても。兄貴の口から聞きたい」

「……面白くなくても何も言うなよ」

「もちろん。さ、聞かせてくれよ」

 そう促され、私は、ぽつぽつと日常の話をした。雅鷹は静かに聴いていたが、時折「へえ、そうなのか」だの「そりゃあいい」だのと相槌を打って、笑顔で私を見ていた。

「……で、笑汰は今、水泳部で部長やってる。もうすぐ引退だが、その前に大きな大会が一つあるんだと。今も、夏休みだってのに練習するために学校へ行ってる」

「それなら、ここで泳げばいいのに。連れてこなかったのか」

「そりゃあ、隼星があんまり急に言うもんだからな。連れてこれなかった」

「俺のせいにするな」

「ははあ、そりゃ残念だ」

 隼星は不満げに私を見ている。雅鷹は愉快そうに隼星の頬をつついている。私はまるで子供の頃のように二人と話していた。そうすることも、今だけは許されているような気がした。

「そうそう、隼星が急に言い出したんだ。あっちこっち回ってたと思ったら、今年は帰ってくるなり『雅鷹を迎えに行く』ってよ。こいつのワガママには振り回されてばっかりだ」

 雅鷹はけらけらと笑って隼星の背を叩いた。

「隼星、兄貴に面倒かけてんじゃねえぞ! お前だって笑汰の兄貴だろ」

「……俺は面倒はかけてないぞ」

「当事者ほどそういうこと言うよな」

「はは、言われてんな!」

 雅鷹はずっと上機嫌そうに笑っていたが、ふと私を見た。

「どうした?」

「いや、どうしたってこともないんだけど……兄貴は昔っから苦労人だから。俺も迷惑かけてるよな」

 雅鷹は、そう言って頭を掻いた。私はその頭を軽く叩いて「馬鹿言え」とだけ返した。

「わ、痛えよ」

「お前は手がかからなさすぎるんだよ」

 そこでようやく、私は雅鷹が今の隼星と同じくらいにまで成長していることに気付いた。それでも、それに違和感は感じなかった。

 私たちには、何も起こらなかったのだから。

「さ、そろそろ行かないと」

 ざぶり、と水音とともに立ち上がって、雅鷹は私と隼星に手を差し出した。

「一緒に行こうぜ。一人じゃ寂しいんだ」

「うん、早く行こう」

 隼星は迷いなくその手を取った。

「ほら、一冴も」

「……そうだな」

 雅鷹の手を取ろうとした瞬間、聞き慣れない声がした。

「……何してんの?」

 振り返った先にいたのは、うちのすぐ近所にある中学の制服を着ている少女だった。笑汰も通っている学校だから、そこの制服は一目見たら分かる。

 少女は長い黒髪を二つにくくって、まだ新しそうなローファーを履いていた。どこか、見覚えのある顔をしていた。

「弟が、一緒に行こうって言うから」

 私の言葉に、少女はあからさまな嫌悪の目を向けた。

「そんな化け物が家族に見えてんの」

 そして、吐き捨てるように言った。

「自己満足だかなんだか知らないけど、弟さんはいい迷惑だろうね」

 とんでもなく腹立たしかったが、なぜか言い返すことはできなかった。少女は鼻で笑い、なおも続ける。

「私見りゃ、分かるでしょ」

 次の瞬間、少女の体がぼろぼろと崩れ落ちた。砂浜が真っ赤に染まっていく。

 私は驚いたまま声も出せず、崩れゆく少女を見つめていた。

 

 少女はただの肉塊になる直前、静かな声で呟いた。

「死んだ人は戻ってこないよ」

 それを聞いて、ようやく私ははっとした。

「……駄目だ」

 ぱっと視界が暗くなった。月すら見えない真っ暗な海岸で、私は右も左も分からなくなって立ちすくんだ。

 ようやく暗がりに目が慣れてきたとき、隼星はとうに腰まで海に浸かっていた。

「一冴? 何してるんだ、早くこっちに……」

「隼星、駄目だ、戻れ」

 こちらを向いた隼星は、顔の半分ほどまで肉塊に覆われて、微かにゆらゆらと揺れていた。

「どうして。雅鷹がいるのに」

 隼星はそう言ってまとわりつく肉塊を指差したが、私の目には、もうそれは雅鷹には見えていなかった。

「違う、駄目だ、目を覚ませ。お前の目には、それが本当に雅鷹に見えてるのかよ……!」

 今止めなければ、隼星がもっと遠くに行ってしまいそうな気がした。肉塊は呼吸をしているかのように蠢いて、隼星の体にまとわりついている。

 これは雅鷹ではないのだ。仮に雅鷹の姿をしていても、雅鷹ではない。雅鷹であってはいけない。

 腐臭と潮の香りがつんと鼻腔を撫でた。

「……だとしても、俺は行かなきゃならない」

 隼星の声が聞こえた。今にも泣き出しそうな顔だった。

「巻き込んで、ごめん」

 ごぼり、と音がした。

 風ひとつない海面が揺れる。

 肉塊は隼星を飲み込みながら、海の底へと沈んでいく。

「待て……隼星!」

 必死に伸ばした手は、空を掻くばかりだった。

 記憶はそこで途切れている。

 次に私が見たものは、真っ白な天井だった。

「……あっ、一兄!」

 涙で顔をべちゃべちゃにした笑汰が目に入って、私は働かない頭を無理に動かし、状況を把握しようと辺りを見回した。

 病院にいる。それは分かる。管が色々繋がっている。それも分かる。何故なのかだけが分からない。

 とりあえず横の笑汰に手を伸ばすと、笑汰はまるで今にも死にそうな人と対面しているかのように、まだ泣きながら私の手を握り返してきた。よほど泣いたのか、目は真っ赤で、祖父の手拭いが首に巻かれていた。

「……これしきのことで泣くなよ、高校生」

「だって、隼兄も起きないし、脳に何かあったかもしれませんって言われるし、そもそも海で溺れてたってなんだよ……」

 笑汰は泣いているのか、安堵しているのか、怒っているのか分からないような声で言った。それよりも私は、自分の声がひどくしゃがれていることのほうに驚いていた。

「じいちゃん、来てんのか……」

「うん。今は隼兄のほうに行ってる。ちょっとあっち、やばそうで……」

 ぼんやりとした頭で、だろうな、なんて考える。なんとなく、隼星は無事ではいられないような気がしていた。でも、生きてはいるらしい。

「呼んでくるから、待ってて。その間に死なないでよ」

「死なない」

 笑汰が病室から出ていって、ようやく私は自分の状況を把握してきた。

 そうだ。隼星と、雅鷹を迎えに行ったんだ。

 そうして、変な駅で降りて、海に出た。海にいた肉塊を思い出していた辺りで、廊下からぱたぱたと足音が聞こえてきた。

「一冴、どっか痛いところとかねえか」

 祖父はいつものしかめ面で病室に入ってくるなり、私にそう聞いた。私は「どこも」と返しながら、祖父の顔色が良くないことに気が付いた。

「じいちゃん、寝てないのか。顔色が最悪だぜ」

「そりゃあ、孫が二人も死ぬところだったんだ。笑汰も寝れねえのに俺だけ寝てられるか、アホウ」

「笑汰が?」

「ああ。ここ一週間、お前らが死んだらどうしようとか言って泣いてたぞ」

 隣で笑汰が決まり悪そうに縮こまっているのを見て、私はようやく申し訳なくなった。どうやら、かなり心配をかけてしまったらしい。

 それから祖父に聞いたところ、私と隼星は砂浜に溺死寸前で倒れていたところを発見されて、病院に搬送されたとのことだった。それで笑汰は、私が目覚めるまでの一週間、ずっと祖父の家にいたのだという。

「それから、昂から聞いたぞ。雅鷹を迎えに行ったんだってな」

 昂とは、火野さんのことだ。私は素直に頷いた。

「そうか……なら、もういい。お前はこれについて、何ひとつ気負う必要もないし、俺もお前に何か言うつもりはない」

 よく分からないままに聞いていると、祖父は眉間のしわを深くして、「いいな?」と一言、私に聞いた。また、よく分からないままに頷く。

「よし。じゃあ俺はもう帰る。今日はもうゆっくり休め」

「あ、おう……」

 祖父は笑汰を連れて帰っていった。なんだか嵐のようだった。

それから二日ほどして、火野さんがのんびりやってきた。そのとき私はベッドの上でパソコンを開いて、あれこれ仕事をしているところだった。

「よ、退屈してないか?」

「一週間抜けた分の仕事が山積みなんだ。退屈してる暇もないよ」

「はは、大変だな。でも、無理はするなよ。まだ体調も万全じゃないんだろ?」

「そういう火野さんだって、今は仕事が忙しいって言ってただろ」

 火野さんはベッドサイドの椅子に座りながら「まあ、少しくらいいいだろ」と笑った。

「ちょっと聞きたいことがあるんだが、いいか?」

「ああ」

「その……雅鷹に会ったか? ああ、いや、ちょっと違うな……雅鷹に見える、何か別のものに会わなかったか?」

 出し抜けにそう聞かれ、私は動揺しながら頷いた。

「会ったけど……なんで火野さんがそのこと知ってんだ?」

 パソコンを閉じながら聞くと、火野さんは眉を下げて頭を掻いた。そうして少し言葉を探すように目線を泳がせてから、ぽつりと言った。

「お前らが会ったもの、心当たりはあるんだ。だから、その……俺が知ってることだけでも、話そうと思って」

 火野さんはそう言って、ぽつりぽつりと話し始めた。

「お前らは全く行かなかっただろうから知らないだろうな……親父の家の近くにある駅の近く、もともと踏切があったんだ。あんまりにも飛び込みが多いんで、高架になっちまったんだが」

 火野さんはのんびりとした口調で言って、細長く息を吐き出した。

「あそこの最後の自殺者は俺の姪だった。生きてりゃお前と同じくらいだったよ」

「……姪、いたんだ」

 何と言っていいのか分からず、私はそれだけ言った。火野さんはただ頷いた。

「おう、兄貴の娘。まだ中学に入ったばかりでなあ、明るくて、自信家で、よく喋る子だった。母親が早くに死んじまったんで、兄貴が一人で育ててたんだ」

 続いて火野さんが話してくれたのは、私たちの暮らす地域にあった、奇妙な儀式についてだった。

 

 うちの地域では、かつては子供が生まれると、その臍の緒を取っておいて、お守り代わりにしていたそうだ。それがいつの時代からか、風習から儀式に変わっていった。

 子供が成人する年に母親が子供の臍の緒を食べ、子供は母親の髪を食べるのだ。そうして、子供が母親より早く死んだ場合、母親は子供の遺髪を食べ、盆の時期に海に入って経を唱え、そのあと一切の食物を絶って餓死する。

 こうすることで、死後は母子ともに何の苦しみもない楽園に行くことができる、と信じられていた。臍の緒を多く食べた女は徳が高くなる、といったような話もあったそうで、金に困った母親が別の女に臍の緒を高く売りつけることもあったという。

 火野さんが幼稚園に通っていた頃にはまだ少し残っていて、古くから続く家ではやっていたところもあったらしい。

「なんか……浄土信仰に近いものを感じるな」

「ここらの海は人死にが多いから、それもあって続けてたんだろう。ちょっと年寄りに聞けば、いくらでも出てくる話だ」

「……なら隼星も、それで知ったのかもしれないな」

 私が言うと、火野さんは「そうだな」と呟きながら頷いた。祖父と懇意にしている客は大体が年配だから、ふとした会話の中から聞き出すのも容易なことだったのだろう。

「俺の姪が死んだとき、兄貴も娘の臍の緒を食べたんだよ。しかも火葬のときに、自分の髪を一緒に燃やしたんだ」

 落ち着き払った口調で語られたそれに、私は言葉を失った。それと同時に、そこでようやく合点がいった。

 恐らく、私を止めたあの少女は、火野さんの姪だったのだろう。電車に当たって潰れたために、体が崩れていたのだろう。

「兄貴はそのあと、ちょうど盆の日に、娘を迎えに行くとか言ってふらっと消えて、海で溺死してるのを見つかった。十年ちょっと前の話だ」

「溺死……じゃあ、その人は完全に連れて行かれたんだな」

「ああ……全く、下手なことはするもんじゃねえな。何十年とやってりゃあ、自然と『何か』になるもんだ」

 火野さんは深くため息を吐いて、窓の外を見た。

 海の青が、こちらを向いていた。

 

 隼星が目覚めたのは、それからまた三日が経ってからだった。

 目を覚ました隼星は、ころっと人が変わっていた。

 よく笑うようになり、よく喋るようになった。

「もうどこも痛まないか?」

「おう、もう大丈夫だ」

 ひと足先によくなった私は、頻繁に隼星の病室に行ってはあれこれ駄弁った。

「……お前、父さんと母さんが生きてるときから、やんちゃしてばっかりだったな」

「そうか? あんまり自覚はないんだけどなあ」

 からり、と笑って、隼星は頭を掻いた。

 そんな風にして、間もなく私も隼星も退院し、久々に家に三人が揃った。笑汰は兄二人が意識不明というので精神的に参ってしまったようで、私たちはしばらく彼のご機嫌取りに奔走しなければならなかった。

 そして、火野さんの言葉の通り、母の遺品である私たちの臍の緒は、雅鷹の分だけなくなっていた。

 臍の緒が入っていたのは、祖父の作った寄木細工の箱の中だ。正しい手順で開けなければ決して開かないそれは、祖父に頼んで開けてもらった。

「十中八九、隼星だろ。このテの箱を開けられんのは、俺の工房の人間……俺か昂か隼星だけだ」

 私は隼星が祖父のもとに弟子入りした理由をなんとなく悟った。祖父もおそらく気付いていたのだろうが、隼星にその件を話すことはなかった。

 

 それから一ヶ月ほどして、またヨーロッパに飛ぶとか言って、隼星が日本を出ることになった。

 初めてのときと同じように、その宣言は唐突で、今度は祖父にひどく叱られていた。

「お前はどうしてこうも勝手にあれこれ決める!」

 隼星は擦り切れたリュックサックを抱き締めて、困ったような顔をしていた。

「でも、もう飛行機のチケットも取っちまったし」

「俺の工房を継ぐとか言って進学を辞めたのはお前だろうが。あっちこっちほっつき歩いて、どういう了見だ?」

「耳が痛えなあ……」

「痛えと思うならいい加減腰ィ据えんかい!」

 一通りの説教が終わった後、隼星は私にだけこっそりと「俺が継がなくても、火野さんがいるし」とぺろりと舌を出してみせた。

 初めて見る笑い方だ、と思いながら、私は隼星の頭を小突いた。

 

 隼星の出国の日、私と笑汰は、彼を空港まで送った。

「心配かけたな」

 隼星はそう言って歯を見せて笑うと、ひらりと手を振った。

「じゃあな、兄貴、笑汰!」

 私は手を振り返しながら、もうあれは帰ってこないだろう、となんとなく思った。その証拠に、フォトフレームの写真は、エストニアの小麦畑を写したきり、ずっと更新されていない。

 

 それから一年し、帰国を目前に控えた八月の中頃、ヴェネツィアのアパートの一室で、隼星は一人で死んでいた。

 表向きの死因は窒息死ということになっている。腹の中には長い髪の毛が大量に詰まっていたそうだ。

 向こうで火葬までしてもらったが、現地の監察医に話を聞いたときに「君の弟は心臓を持っていなかったよ」と言われた。「心臓があるはずのところに、肉が詰まっていて何もなかったんだよ。まるで生まれつき心臓がないみたいにね」と。

だから、そもそもあれは隼星ではなかったのだと思う。

 

 今の後悔はとにかく、あのとき隼星を止めていれば、ということに尽きる。優柔不断な自分の行いのせいで、隼星はあの日、たった一人で死んだのだから。

 祖父は気負うなと言ったが、私の中には、重だるい後悔がいつまでも渦巻いている。

 

 葬儀が終わって、もうすぐまた、一年が経つ。ここ数ヶ月、頻繁に口の中に髪の毛が入っている。長いから自分のものでないことだけは分かるが、なんとなく薄気味悪くて困っているのが、最近の悩みだ。

 私がそう話を締めくくると、友人は珍しく真剣な顔付きになった。

「ああそうか。だからお前といると波の音がするのか。最近輪をかけて大きくなってきたから、何があったのかと思った」

 

 盆の日は、一週間後に迫っている。