在り処

短編/イヤミス/中津修治

 鈍行に揺られ、帰る場へ。流れゆく景色に身を任せる。アナウンスが流れ最寄り駅の到着を告げる。開いた扉から人が次々と出ていく。私もその中の一人だ。皆一様にして手に握られたスマホに目を落とし、ずらずらと流れ出ていく。

 皆、家に帰るのだ。

 私は右手に掴んだ定期券を改札に当て、駅から抜け出す。人の波をかいくぐり南出口まで歩く。私の家は、駅の南出口からまっすぐ坂道を登り、一番上にある。二階建ての一軒家。築三十年は超えている洋風の家だ。玄関に置いてある花瓶には毎朝違った花が生けられている。一階にはリビング、ダイニング、キッチン、浴室に洗面所、それに書斎が一室あり、二回には書斎がもう一室と八畳ほどの寝室に、空き部屋が二つ。一人で暮らすには広い家だが、確かに私の家だ。

 私は毎日そこへ帰る。

 

 いつもの坂道を歩き、とうとう家が見えてくるというところで違和感が私を襲った。周りを見渡せばいつも通りの風景。空は茜がかった色をしており、日が沈みゆくことを教えてくれる。おかしな所など何もない。それにも関わらず、違和感が消えてくれない。

 頭上から聞こえるカラスの鳴き声、目の前を横切る黒猫、遠くから聞こえる踏切の音。

 ふと、私のすぐ横にある低いカーブミラーに目が行く。私は何か肝心なことを見逃していないだろうか。そう思い、もう一度ミラーをのぞき込む。カーブミラーに映った私を見れば、おかしなことに気がついた。自分の後ろ姿が映っている。私はミラーと向き合っているにも関わらず。

 

 自分の後ろ姿をまじまじと眺めるのは初めてである。確かにそこに映っていたのは私であった。現実的でない現実に、冷や汗が噴出した。心拍数が急激に上がり、不安が心を締め付ける。震える手でポケットから煙草を取り出し、ライターをつける。火が揺れ、上手く煙草につかない。ようやく煙草に火が付き、大きく吸い込んだ。

「あの、駄目ですよ」

 背後からの声に心臓が飛び出しそうになる。振り返れば、嫌そうな顔をした女性が立っており、私は急いで煙草の火を消した。軽く謝罪をすると、女性はそれ以降何も言わず、坂道を登って行った。

 もう一度ミラーを見れば、そこには普通に私が映っているだけだ。きっと仕事で疲れて見間違えたのだろう。人間の感覚なんて信用ならないものだ。私は気を取り戻し、坂道を登った。

「違う」

 自分の口から、自然と言葉が漏れ出た。目の前に在る家は、確かに私の家だ。しかし、私の本能がここではないと告げている。非常に感覚的なことではあるのだが、どこか確信めいてそう思えた。しかし、私は心の声を一度無視して、玄関の鍵をあけ、中に入った。

 明かりがついている。電気を消さずに家を出たのかもしれないが、念のため、恐る恐る家に入った。仕事の鞄を盾にしながら、リビングに繋がる扉をゆっくりと開ける。

 私はまたも驚愕した。この十数分で寿命が十年は縮んだであろう。そこには女がいた。驚愕のあまり無言になる私と、私に気づき、目を見開けて口を間抜けに開く女。私もきっとこのような顔をしているに違いない。

数拍の後、女が甲高い声で叫んだ。私は訳が分からなくてそのまま家を飛び出た。

 

 坂の途中にある公園まで走り、ベンチに腰を下ろした。そして、あそこが私の家ではないのだということが分かってしまった。吸いかけの煙草を携帯灰皿から取り出し、もう一度火をつけた。大きく吸い込んだ後、大声で笑った。可笑しなことだ。漂う煙が霧散していく。

 思い返せば、家にいたあの女は、私に話しかけてきた先ほどの女性だ。そして、あの家はきっとあの女性の帰る場所なのだ。そうであるのだと納得してしまった。不思議と納得してしまった。

 どうやら私は帰る場所を失ってしまったようだ。どうしようもない虚無感を隣に座らせ、電波塔の後ろに沈みゆく太陽を眺め続けた。

 煙草が尽き、私は公園を後にした。

 行く当てがない。どうしたものか。私はただ歩いた。自分がここにいてはいけないような気がしたのだ。目的地などない。ただ、その場にとどまりたくなくて、歩いた。不安が常に後ろから追いかけてくるようで、私は一晩中歩き続けた。

 そうしてくたびれて、私の家で在っただろうあの場所へ戻ってきた。しかし、ここではない、私が帰るべき場所は別の場所なのだと思えてしまった。帰属本能が、ここではない別の場所を指示(さししめ)しているのだ。ここを立ち去れと風が喚いている。

 不安や焦りといった感情はどこかに行き、残ったのは虚無感だけである。帰る場所を失い、自分の在り方すら忘れてしまいそうだ。私という人間の在り処は突如として消えてしまった。そんな風に感じてしまう。

 振り返れば、電波塔の後ろから朝日が顔を出していた。もう、朝である。まるでイデアを失ったゾンビのように歩き回ったすえ、私はカーブミラーの場所に立っていた。

 そこに映る自分の顔は、やつれきっており、生気がまるでない。いつの間にか掛け違えられた世界に私はいたようだ。

 帰る場所がないというのはこれほどまでに虚しいことか。我々は、死ぬことがわかっているから、日々安心して生きていける。始まりがあり、終わりがあるからこそ自分であり続けることができる。そのどちらかでも欠けてしまえば、私という存在はもう形を成すことはできない。

  嗚呼、私の帰るべき場所はもうない。

 男は笑っただろうか、それとも男は絶望しただろうか。在処を失った男は、空に輝く太陽の日にさらされ影となり、この世界から消えた。この男の存在を証明するものは、もう何もない。